青の果て

 荒野を歩いている。
 木も草も生えていない、埃っぽい大地。岩がごろごろとそこかしこに転がっているだけで、ほかには何もない。そんな荒れ地を、ぼくは何処までも歩いてゆく。果てはない。喉が渇いても足が擦りきれそうになっても、陽の落ちない荒野を、どこまでも、いつまでも。
 この夢を見た朝は、寝覚めが悪い。
 身体が重くて、直ぐには起き上がれない。まるで、ほんとうに一ト晩中歩き通したかのように。暫く横になったままで、ぼんやり考える。ぼくは一体、何処まで歩き続けなければならないのだろう―――。
 こんなときには、ぼくは時間をつくって、海を見に行くことにしている。得体の知れぬ疲れを抱えた者でさえ、海は風と波音で迎え入れてくれる。
 青が眩しい。
 初夏の陽差しよりも、海の青の方が一層、眼にしみる。波の端々にも光の飛沫を遊ばせている海に、ぼくは眼を細めた。
「上月。また、あれを見たのか。だだっ広い野ッ原を歩き続けるって夢を。」
防波堤に横付けした紺色の軽自動車の扉から、キイを引き抜きながら、がっしりとした体躯の男が人なつこい視線をよこす。
 海が見たい。顔を合わせるなりただこれだけを口にしたぼくを、彼は何も言わずに少々、がた・・がきて揺れのはげしい軽自動車に乗せて、ここまで連れてきてくれた。
 半袖の上衣シャツに膝丈の下衣ズボン、それに草履履きという些かラフ過ぎる恰好のこの男は、ぼくの同級生だ。高等学校の二年次に出会って以来だから、付き合いは一〇年にもなる。頻繁に会う間柄ではないが、彼は誰よりぼくを理解している。……多分、ぼくよりも深く。
「野ッ原じゃないよ、霧嶺。岩だらけの荒れ地だ。」
「同じようなもんだ。」
 防波堤に腰を下ろして海の方に脚を投げ出しているぼくの隣りに、草履履きの足が立つ。見るともなしに見える脚には、幾つもの傷痕がある。半袖から覗く腕にも、陽灼けてなお隠しきれない痕が見える。……この傷痕の所以を、ぼくは知っている。彼の意志によらず、しかし彼自身によってつけられた傷痕だということを。
「眺めるなら、やっぱり海だな。池や湖はただの水たまりだが、海は生きてるって感じがする。」
だから俺はよく海を見るんだ、と霧嶺は呟いた。ぼくは何も言わずにいたが、異議などなかった。波音は途絶えることなく、ぼくの耳に届いている。
 風がぼくの髪を乱す。潮の匂いと、果てしない青の連なり。その中にあって、ぼくは時の流れさえ忘れてしまいそうだった。
「上月―――。」
不意に名を呼ばれる。間も置かず、強い力がぼくの背中を押した。落ちる! 思ったときには、ぼくの身体はすっかり水の中に呑み込まれていた。
 水。足の下も頭の上も、眼の前も胸の周りも、皆、水に覆われている。空気を求めて口を開ければ水が入ってくる。ぼくは手足を闇雲に動かした。手で水を掻き、足で水を蹴る。怖れも、怒りも、 焦りも、何もないままに。
 ……やがて、海風がぼくの頬を撫でた。波に揺られながら、防波堤を見上げる。
「霧嶺、お前……!」
「何だ、浮かんできたじゃないか。俺はもう歩くのが厭で上がってこないんじゃないかと思ったぜ。」
え、とぼくが声に出すより早く、ぼくの直ぐ傍の水が、大きく音を立ててはねた。
「霧嶺!」
ぶくぶくと水面に泡が立つが、水の中でもがいている様子などない。おい、まさか―――!
 たぷん、と波を立てて、霧嶺が水から顔を出した。
「これで判ったろ。」
ぼくを見た途端に、にやりと笑う。
「人間なんてのは案外、頑丈でな。そう簡単にはくたばりやしないんだ。」
俺がいい見本だぜ。左腕を水から出してみせる。手首や肘の辺りに刃傷のある腕を。
「上月。お前にだってまだ、何処までも行ってやろうって気持ちが、あるんだろう?」
ぼくは霧嶺の方に眼を向けた。腕白小僧の表情を上したその顔に、両手で水を浴びせる。それから、青の連なる彼方を仰いだ。
  ……きっと、霧嶺の言う通りなのだろう。何処までだって、きっと行ける。行こうとしている。だから、荒野を歩き続けているんだ。
 行けるに違いない。何処までも。この遙か途切れることのない海と空とのふたつの青が相まみえるその青の果てまでだって、きっと。

〈了〉


0009221517.
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【習作について】
習作にはたびたび「霧嶺次郎」という名の男性が登場しますが、DigitalCreate発行「Silence revolution」に2004年1月〜12月の間、連載していた「天気晴朗なれど波高し」の主人公、霧嶺次郎とは同姓同名であるだけでその他は何ら関係がありません。まったくの別人です。

と じ る