ぐるっとまわって


『総太……総太よ。何故気付かぬ。我が声が聞こえぬのか、総太よ。』
 誰だい、俺を呼ぶのは。総太少年が細い首をまわすと、薄い霧だか靄だかの中に人影があった。眼を凝らしてみる。人影に見えたものは、人ではなかった。猫だ。しかし御丁寧に直立して高貴な黒色の礼服を着けている。銀鼠の色の短毛の上に黒色が重なると映えてうつくしかった。何故だか 片眼鏡 モノクル を付けていて 短杖 ステッキ を携えている。絵に描いたような紳士像だ。ああこれは、俺は夢を見ているな。総太にはそれが判った。
『総太よ。私とともにこの世で最も価値ある宝を探しに行かぬか。それ、その在処を示す地図もある。』
 猫の紳士がその手を翻すと一枚の紙が何処からかひらりと舞ってきて、総太の前に留まった。随分古い地図のようで、紙は白茶けて朽ちかけて縁がぎざぎざだった。
『その地図持て、私とともに旅立て少年よ。私はお前さんの傍にいるぞ。赴く気になったなら気軽に声を掛けるがよい。』
 ぴんと張った髭を前手で撫でつけながら猫の紳士は気取ってみせる。高貴なのか蓮っ葉なのか判んない言葉遣いだな、と総太が思っていることを知ってか知らずか。
『お前さんが旅立つ勇気を持った覇気ある少年であることを信じているぞ、総太よ。』
 辺りに漂っていた霧だか靄だかが濃くなってきて、猫の紳士の影を薄くしてゆく。待て、もっと詳しく聞かせろ、とは総太は思わなかった。がきんちょのときに読んだ絵本の影響がいま頃、夢に出てきたかあ、と思っただけで。
「…………。」
 板間の上で、総太は眼を覚ました。菩薩像の曖昧な笑顔が見える。この町唯一の寺院である総林寺の本堂のど真ん中に、大の字になって昼寝をしていたのだ。住持である父親は留守がちで、長兄ということもあり、総太は仏前で無作法を働いても叱られることはなかった。本堂で昼寝をすることが無作法だとは、総太は少しも思ってはいない。薫風渡るこの季節、一番気持ちいい場所で気持ちよく寝て何が悪い。それが総太の気持ちだった。
 開け放した堂門からは境内が見渡せる。晩春を過ぎ陽差しは初夏の色合いを強めていて、総林寺の外猫たちは日陰を択んで端居している。漁港が近いこともあって、外猫の数は多い。境内では常に五、六匹の猫が気儘に転寝をしている。そのうちの馴染みの一匹が、今日はめずらしく本堂に入り込んできた。銀鼠のつややかな毛並みの猫だ。洋猫の血が混じっているのか、細身で引き締まった顔と身体つきをしている。気品がある、と言えなくもない。その姿を認めて、総太は成長期にあるがために眠る度に軋む身体を半ばまで起こした。
「ははあ。ただいまの俺の夢に出てきたのは、お前だな。」
 猫の方に一方の腕を伸ばそうとした。そのとき、利休鼠の作務衣を着けた総太の腹の上から何かが かさり ・・・ と板間に落ちた。
「あ?」
 視線を落としてみると、そこには一枚の紙きれがあった。白茶けて、縁がぎざぎざに朽ちた紙だ。猫の方に伸ばそうとした手を返してそれを拾い上げる。墨書きで何やら地図のようなものが描かれているのが見て取れた。
「おいおい、ほんものかい、こいつは?」
『如何にも左様。』
 ひとりごちた言葉に返事がくる。総太は本堂の中を首をまわして一ト通り見まわした。自分以外に 人間は ・・・ 見当たらない。銀鼠の毛の猫が直ぐ傍に寄ってきている。
「いまの声……仏さんじゃないとすればお前しかいないな。」
 総太は猫に顔を寄せた。厭がらなかったので、頭を撫でてやった。
『やれやれ、気易くさわってくれるものだ。』
 思わず総太は手を止めた。じっと猫を見る。猫というものはだいたい、視線を合わせるのを厭がるものだが、銀鼠の猫は見つめ返してきた。
「間違いなさそうだな。」
 総太は起き上がって伸びをして、半跏趺坐にすわり直した。よく磨かれた床の上に落ちた紙きれを手に取る。
「ほんものか……それにしちゃえらく御近所の地図に見えるけど。」
 海岸線と、直ぐ傍の小さな山と、その懐の小さな町。水墨画のように描かれた図は、それ等を表しているように見えた。
『それがほんものでなければ何だと言うのだ。まさか、これもまた夢の続きでしかないとでも思っているまいな?』
 銀鼠の毛の猫は優雅に幾歩か進み、総太の正面にちょこんとすわった。その姿を、総太はじっくり見る。なるほど、気品はある。夢に礼服姿で現れただけのことはある。だけど、公爵や侯爵というよりは男爵だ、と総太は思った。
「男爵殿、とでもお呼びしようか。呼び名がないと面倒だからな。」
 少し寝ぐせのついた短い髪を乱すように頭を掻きながら正面の猫を見やる。まんざらでもなさそうな顔をしている。総太は膝を打った。
「さて、男爵殿。〈この世で最も価値ある宝〉とやらは、いったいどんなものなんだい?」
『それを確かめるのはお前さんの役目ではないかね。』
「知らないんだろう?」
 銀鼠の男爵はぷいと顔を背けた。図星なんだな、と総太は口に出さずに呟いた。
「まあ、いいさ。何か判らない方が探す愉しみも大きいってもんさ。」
『では、行くのだな?』
 そっぽを向いていた男爵がそそくさと近寄ってくる。総太は思わせぶりににやりと笑ってみせた。
「言い出しっぺがちゃんと案内してくれるんならな。」
『勿論だ。いざ行かん、少年よ!』
 男爵が跳ねるように堂門に向かう。まだ成年まで幾らかある年令だというのに、よっこらせ、と呟きながら総太は立ち上がった。地図を眺めながら堂門を出たが、そこには下駄が一足、揃えられているだけだった。草履の方が動きまわりやすいんだけどな、と思いながらも総太は二枚歯の下駄を突っ掛けた。
 思ったよりも陽差しが強そうだったので、参門を出る前に斎堂に寄り、白い手拭いを一枚借りて頭に巻いた。襟足の辺りでほどけないようにきちんと結んでおく。参門を出ると坂道が続く。からころと下駄を鳴らしながら下ってゆく。
「さて……ちょいと気になるんだけどな、男爵殿。」
『何かね。』
「この地図さ、この辺りを描いたものだとは思うんだけど、起点も終点も書いてないんだ。」
 ちょこちょこと下駄の傍を小走りに男爵が着いてくる。
『何だと。それでは総太、お前さんは何処から何処へ向かうかも判らずに歩いているというのか?』
「そういうことだねえ。」
 小走りしながらも器用に男爵は総太の足を前手できつく叩いた。
『何と呑気なことだ! ほんとうに宝を探す気があるのか?』
「さて、どうでしょうかね……まあ、いいさ。出発点なんてものはいつだって必ず〈いま自分がいる場所〉だ。」
 言って、総太は朽ちかけた紙の地図を無造作に作務衣の懐に押し込んだ。からころと澄んだ下駄の音が広い初夏の空に響いていた。
 総林寺は小さな山の中腹にある。山と言うよりは丘と言った方が適しているのかもしれない、小高い斜面の町だ。小路がうねりながら何本も交錯して、一般の御宅や小さな店構えや寺を繋いでいる。小路を抜けて気儘に下駄をからころ言わせていたら、近所の商店街に入り込んでしまった。不都合は何もないからそのままからころ歩いてゆく。
「お、総ちゃん。何処へ行くんだい?」
 声を掛けてきたのは魚屋の親父さんだった。いつも威勢がいい。総太はありのままを答えた。
「宝探しに。」
「ははは。総ちゃんはいつも飄々としてていいねえ。大物になるぞお。で、その宝ってのは何処にあるんだい?」
「さあ。」
 総太は軽く肩をすくめた。親父さんは更におもしろがって訊ねてくる。
「宝ってのは、どんなものなんだい?」
「さあ。」
「さあ……って、総ちゃん、その宝、ほんとうにほしいのかい?」
「よく判らんです。」
 総太の受け答えに、親父さんは商店街一杯に響くような大声で笑った。
「総ちゃんらしくていいや。流石、典座さんの子だ。横っちょに着いてきてるのは御供かい?」
「いえ、このヒトは先導役の男爵殿です。」
 男爵は無言のまま、つんとすまして親父さんの前に気取って進み出る。尻尾をぴんと上げて、しなやかに四肢を繰り出して。
「ほほう、猫の男爵さまか。貴族さまには粗末なものは差し上げられんやな。ちょいと上等なやつを献上しとこうな。」
 親父さんはそう言うと、プラスチック製の小さな皿にちりめんじゃこを一ト掴み乗せて、男爵の前に差し出した。男爵は何やら思うところがあるらしく、直ぐに口をつけようとしない。総太と親父さんとを交互に見上げてそれから静かに食べはじめる。それを見届けてから、総太は親父さんに向かって両手掌を合わせた。
「喜捨ですね。男爵殿の言葉は多分親父さんには判んないでしょうから、俺が代わりに誓願文唱えときます。」
 念仏のような経文のようなものを手を合わせて総太が諳んじる。作務衣姿で合掌していれば一〇代半ばにも満たない子供でも一端の僧侶に見える。総太の誓願文が終わる頃には、男爵の臨時の食事も終わっていた。
「はいはい、有難いね。まあ、天気もいいし陽も高い。ぼちぼち行けや、総ちゃん。典座さんにも、近いうちに活きのいいやつを納めに行くからな。」
「はい、有難うございます。」
 一礼を施して、総太はまた下駄を鳴らしはじめた。
 からころ進む総太の足許にまとわりつくように男爵は小走りに、しかし気品を損なわないように着いてくる。
『総太よ、あのようなことでよいのか。あの商店主はお前さんが重要な責務を負っているとは露ほども思ってはおらぬぞ。』
「別に構わないんじゃないか。 他人 ひと さまの思うことってのは当てにならないもんだし。親父さんが俺が宝を見つけるって信じてようが信じてなかろうが、俺が宝を見つけるかどうかには多分直接は関係してこないと思うんだけど。」
『何と呑気なことだ。お前さんのその気構えといい話し言葉といい。とても子供とは思えぬ。』
「そんじゃ、大人なんじゃないかい?」
『たかだか 一四歳 じゅうし が何を かすか。』
年令 とし でなるもんじゃないだろう、大人ってのは。」
 最早や じじい の境地だ、と男爵は心うちで嘆いた。総太の下駄の音は飽くまで澄んでいて、心地よく 律動的 リズミカル だった。
 商店街を通り抜けると、一ト息に 人気 ひとけ が失せて静かになる。確たる目的も持たないまま総太は下駄を鳴らし続けた。
『総太よ、お前さんはいま何処へ向かっているのか。地図を見るくらいはしてはどうか。』
「ああ、そうだねえ。目印もなーんもついてない地図でもないよりはましってもんだしねえ。霧海南針ってやつだな。」
 言われてようやく作務衣の懐から古びた地図を出す。両手で広げて眺めながら歩いていると、誰かがすすり泣くような声が聞こえた。地図から顔を上げると道路傍の電信柱の影に、両手で顔を覆っている女性がいるのが見えたが、総太はそのまま地図に眼を戻して通り過ぎようとした。からころからころからころと続くからりとした五月の天気に似合った下駄の音は、しかし不意に途切れた。総太の作務衣の袖を、掴んで離さないものがあったからだ。
 電信柱の影の女性が、一方の腕を伸ばして総太の袖の肘辺りを掴んでいる。そのまま歩いて行こうとしても離れないほど、しっかりと。こうなっては総太も足を止めるしかない。
「あの……俺に何か用ですか?」
 厭そうでもなく困った風もなく総太は地図を懐に収いながら訊ねた。すると、総太よりも 十歳 とお も年長かと思われる女性は、総太の袖を掴んでいるのとは反対の手で泣き濡れた顔を半ばまで隠しながら、突拍子もないことを言った。
「教えて。私は何故、泣いているの?」
「はあ。それを俺に訊きますかね?」
 白い手拭い越しに頭を掻きながら、総太は男爵にちらりと眼を向けた。男爵は、私は一介の猫です、と言った風情でそしらぬ顔で尾を揺らしている。「我関せず」を通すつもりのようだ。ふーん、と軽く唸って、それから総太は女性に言った。
「その答えがほしいんなら、あなたの手のひら一杯の涙を、俺にください。」
 女性は、総太の袖を掴んでいた手と自らの顔を半ばまで隠していた手と、その両方を小さな拳にした。
「私に、これ以上もっと泣けと言うの?」
「できませんか。できないでしょうね。」
 総太は少し小首を傾げて女性の涙の乾いた顔を覗き込んだ。
「あなた、もう泣いてませんからね。もう泣いてないなら何で泣いてるかを知る必要もありませんね。それじゃ。」
 からころ……と下駄が鳴りはじめる。
「あ、そうだ。」
 からころ……と先刻鳴ったのと同じだけ下駄を鳴らして、総太は最早や涙を流してはいない女性の前に戻った。
「あの、すいません。俺が次に何処へ行けばいいのか教えて貰えますか。地図はあるんだけど、地図の何処へ行けばいいのか判んないんですよ。」
 利休鼠の懐からがさがさと地図を引っぱり出して広げてみせる。女性は驚いたような訝しむような表情をしていたが、総太は構わずに続けた。
「この地図なんですけどね、この何処かに何だかえらく価値のある御宝があるらしいんですよ。でも目印も何もない。で、困ってるって訳です。」
 そこで総太は女性の方をちらりと見て、付け加えた。
「ああ、そんなに難しく考えてくれなくていいです。あなたなら、この地図見て先ず何処へ行こうと思います?」
 突然の問いに戸惑いながらも、女性は怖る怖る地図の上の或る場所を指差した。それを見て総太は頷く。
「ああ、鷲の番所灯台ですね。うん、いまから行っても気持ちよさそうなところだ。どうも有難う。」
 再びからころと下駄が鳴りはじめる。傍で黙って成り行きを見守っていた男爵も後を追いはじめる。五、六歩進んだところで利休鼠の背中に声が掛かった。
「あ、あの……。」
 下駄を止めて、総太は首をまわした。
「どうも有難う!」
 女性は深々と頭を下げていた。
「や、いえいえ、こちらこそ。」
 そう答えて軽く手を振って、総太は再び前を向いて歩きはじめた。
 地図を眺めながら暫くからころ言わせながら歩き、思い出したように総太は足許を歩いている銀鼠の猫に話しかけた。
「なあ、男爵殿。俺、何で御礼言って貰ったんだろう?」
『こいつは、呆れたものだ。お前さんは自分が何をしたのか判っておらぬのか』
「俺、何か大変なことした?」
『ふむ……先に会うた商店主の言う通り、お前さんは大物になるやもしれぬ。』
「……よく判んないけど。次は鷲の番所灯台だとさ。ちょいと山を登ることになるぞ。」
 からころからころ、と相変わらず律動的に下駄を鳴らす総太の足に、男爵が両の前手を使ってしがみついてくる。
『待て、総太よ。これだけ長い距離を歩かせておいて、この上私に山を登れと言うのか。』
「あ? 何だ男爵殿、もうくたびれたのか。」
『人の子と同じにするでない。私の歩幅とお前さんの歩幅を比ぶれば自ずと判ろう。』
「ああ、そいつは気が付きませんで。」
 総太は足を止めて、男爵の胸下に手を差し入れて、その柔軟な身体を持ち上げた。
『総太、私を如何にする気か!』
「ここでじっとしてられるかい、男爵殿?」
 男爵は総太の左の肩口に乗せられた。何とか麻の布目に爪をかけて留まる。
「これで、俺が歩けば男爵殿も進むことになるだろう?」
『む……多少、居心地はよくないが、それも仕方がなかろう。』
「贅沢なもんだな、貴族さまってのも。」
 そうは言いながらも、総太は男爵が自分の肩からずり落ちてしまわないように左手をその小さなやわらかい身体に添えて歩き続けた。
 ようやく定められた目的地らしい目的地、鷲の番所灯台は総林寺のふもとにある港から見える高津志山の中腹にある。海にせり出した緑と岩の山だ。この斜面にも町があってそこへ行く道は舗装されているが、灯台へと通じる道は中途から未舗装になる。鷲の番所灯台は正しくは灯台趾で、現在は灯台としての役割は果たしていない。「海の見晴らし台」くらいの扱いだ。舗装された道の上では機嫌よくからころと音を立てていた下駄も舗装されていない土の上ではいまひとつ寡黙になる。それでも五月の空は相変わらずすっきりと晴れているし、海の方からは静かに風も渡ってくる。山の萌える新緑の中にいるからその匂いもさわやかだ。
「いい気持ちだねえ、男爵殿。」
 勾配の上にある、もとは白亜だったのだろう微かな灰色みを帯びた灯台を見上げながら、総太は満足そうに言った。
『ほんとうにそう思えるのか、総太よ。お前さんの額には汗が滲んでいるが。』
「だから気持ちいいんじゃないか。汗をかくほど身体が熱くなってるから涼しい風が有難い。緑の匂いのする木陰が有難い。高く澄んだ空が有難い。違うかい?」
『ふむ。つまりお前さんは私を担いで坂道を上るのが有難いと言うのか。』
「そういうことかなあ。」
『いや、私にもよく判らぬのだが。』
 灯台の門は開け放たれていた。いつ誰がやってこようが決して拒みはしない、とでも言うかのように。門の奥には螺旋状の階段がある。その階段を昇ると下駄は再びからころと鳴りはじめた。白い階段はさほど長くはなく、直ぐに「見晴らし台」に辿り着いた。一気に視界が拓けて、何色もの青色が眼に飛び込んでくる。空の天辺の青色は濃く、水平線に近い空は淡い青色で、空に接している海の青色は深く、寄せて返す波の青色は光を混じらせて明るい。その青さが眩しくて、総太は眼を細めた。
「く、来るな!」
 しわがれた男の声が何かを拒んでいる。細めた眼を青色の眩しさに慣らすようにゆっくりと開くと、少し広めのバルコニーのようになった見晴らし台の端っこ、一番海にせり出したところの手摺りに痩せ細った男がひとり、震えながら取り縋っていた。
「来るな。誰が止めようとしたっておれは飛び込むんだ。邪魔するな。」
 何かに怯えたようなさまで痩せた男は総太を見ていた。
「止めるな。おれはもう死ぬんだ。ほかに道がないんだ。」
「いや、まあ……。」
 何かに切羽詰まった男と、ところどころが欠けた石造りの低い壁と手摺りとその向こうの海。この場所にはそれだけのものしかないことに眼を配りながら総太は下駄を鳴らした。
「別に止めやしませんけどね。ここで何をしようとあなたの自由だし、それを取り上げる権利なんか俺にはありませんから。でもね、飛び込む前にひとつ教えちゃくれませんか。」
からころ、と海風の中に下駄の音が流れる。
「な、何だ。」
「これなんですけどね……。」
 総太は利休鼠の作務衣の懐から地図を取り出して、左手は男爵を支えたままで右手だけで器用に地図を広げた。
「この辺りの地図なんですけどね……この灯台はここです。あなたなら次にこの地図の何処へ行きます?」
「は……?」
 痩せた男から、はげしいまでの警戒心が消え失せる。それがために男の隣りにまで歩み寄ることができた総太は、顔を並べて地図を見た。
「何処へ行きたいですか?」
 唐突な問いに戸惑いを隠しきれないながらも、男は震える指で地図上の一点を差した。
「……ああ、そこは漁港ですね。まだ行きたいところがあるんじゃないですか。ここから海に飛び込むのなんていつでもできるんだし、一遍行ってみたらどうですかね?」
 地図を見たままでつらつら話す総太には見えなかったが、その肩にいる男爵は見た。男が強い驚愕をその面貌に表しているのを。
「いまから行けば、ゆっくり歩いても午後の漁から帰ってきた漁船を迎えられますよ。大漁で御機嫌の漁師さんでもいれば、獲れたての魚でも貰えるかもしれませんね。旨いですよ、新鮮な魚は。なあ、男爵殿?」
名を呼ばれはしたが、男爵は否定も肯定もしないままで総太の肩に佇んでいる。返事のないことも特に気にとめず、総太は続けた。
「もうひとつ訊いてもいいですか?」
 隣りに立つ男の顔を見る。明確な返事はなかったが厭そうでもなかったので総太は更に問いを重ねた。
「これから俺たち、何処へ行けばいいんだと思います?」
 これにも返事はなかったが男が吃驚したような不思議そうな顔をしたので、説明を加えた。
「これ、宝の地図らしいんですけどね、何も目印なんかついてないでしょう。だから何処へ行けばいいんだか判んないんですよ……ああ、難しく考えなくていいです。ここ行くといいんじゃないかなあって思ったところを教えて貰えれば、それだけで有難いですから。」
 男は再び地図上の一点を差そうと手を上げてきた。その手はもう震えてはいなかった。地図の、先刻とは違う一点を指差す。
「ええと、そこは竹林だなあ。うん、いまから行くなら近いし、心地よさそうな場所だ。」
 開いたときと同じように今度は右手だけで器用に地図をたたんで、総太は懐に収った。
「助かりました。どうも有難う。」
 ひょいと頭を下げて、総太はまた下駄をからころと鳴らしはじめた。螺旋の階段を下ろうとしたところで、斜に見返る。
「ああ、漁港に行くなら、漁師さんには気を付けて。どの人もみんな豪快さんだから、うっかりすると水に突き落とされたりしますから。」
 それだけ言うと、からころ響かせながら総太は階段を下りた。
灯台を出て、山道を今度は下ってゆく。上りのときと同じく、新緑の匂いが濃い。その清涼な匂いを、総太は胸一杯に吸い込んだ。
「うん、やっぱり気持ちいいな。でも竹林に行けば、また違った空気を吸えるんだろうな。」
『総太よ、お前さんは仏心を出したつもりか?』
「あ? 何のことだい。」
『先程の灯台の男。あれは生命を絶とうとしていたのだろう。救いを与えたつもりでいるのか。』
「はあ。そんな風に見えたかねえ。」
『そのつもりはないと?』
「ないねえ。だって、俺が何を言ってもあの人が自分は死ぬんだって決めてたらそうするだろうし、それはあの人の勝手だからね。ただ行きたいところがあるんなら行っといてもいいんじゃないかと思ってすすめただけのことさ。漁港にあの人が行ったとして、そこでもう思い残すことはないってことになったらまた灯台に戻って海に飛び込むのかもしれないし。したいようにすればいいんだよ、何でも。」
『ううむ……私はお前さんがほんとうに少年なのか老爺なのか判らなくなってきたぞ。』
「そうかい?」
 再び下駄の鳴る場所に出てきた。からころ言わせながら高津志山をぐるり半周して反対側の斜面へ行けば竹林がある。左手で男爵を大事に抱えながら、総太はのんびりと、しかし休まずに歩いた。からころからころからころ……下駄の澄んだ音が空に立ち上る。
「男爵殿。俺にしがみついてるの、大変じゃないか?」
『しがみついているなどと、人聞きが悪い。私はお前さんを自らの足の代わりとしているに過ぎぬ。』
「はは。気位が高いねえ、貴族さまは。」
『総太よ、お前さんこそ私を抱えて腕がつらいのではないのか。』
「俺? そんなこたないよ。つらかったら猫の一匹二匹放り出してるさ。」
『む、聞き捨てならぬ。つらくなったら私を放り出すということか。』
「つらくなったら、判んないねえ。でも、男爵殿みたいな軽いのを一日二日抱え続けたところでつらくはならないんじゃないかなあ。」
 総太が答え終わったところで、鳥の啼く声が聞こえた。テッペンカケタカホンゾンカケタカ。繰り返す。テッペンカケタカホンゾンカケタカ。
「時鳥だな。すっかり夏だなあ。」
 からころからころ。テッペンカケタカ。からころからころ。ホンゾンカケタカ。暫く繰り返すと竹林の端っこが見えるようになる。ばさばさ、と何かが羽撃く音が頭上から降ってきて、咄嗟に総太はそちらを見上げた。山の中から天空へと向かって鳥の影が飛び出して行くのが見えた。それが時鳥なのかほかの鳥なのかは、総太には判らなかった。
 竹林に踏み入ると、下駄の乾いた音はなくなった。少し湿った土の上を歩く。緑濃い竹の狭間はしんと静かだった。差し込む陽光も浅く、ひんやりとしている。
「いいねえ静かで涼しくて。男爵殿、ちょいと一ト休みしていいかい?」
『休むのは構わぬが……休める場所などあるのか。』
「ここでいいだろう。」
 男爵の許可が出たところで総太は足を止めて、その場に腰を下ろした。土の上だ。
『そのような場所に腰を下ろして……汚れるぞ。』
「当たり前だ。何だって、どんなきれいなものだっていつかは汚れるんだ。」
 総太はすわった土が少し湿気ているのも気にとめず、更には身体を土の上に転がした。
「汚れたら、それはまたきれいになれる 機会 チャンス さ。一遍汚れないと〈きれいになる〉なんてことはできないからねえ。」
『私は御免 こうむ る。お前さんの腹の上にまわるぞ。』
「どうぞ御自由に。」
 総太の身体が傾いでゆくに合わせて、男爵は利休鼠の肩から腹の方へと猫らしい機敏さで歩いて渡った。土に仰臥する総太の腹の上にちょこんとすわり、自分の銀鼠のつややかな短毛に汚れがないかを見まわす。総太は地面に大の字に転がって暫く くう を眺めていたが、やがて眼を閉じた。
「心地いいねえ……。」
 それきり、何も言わなくなった。竹林の心地よさを満喫しているのだろう。そう思って最初のうちは黙って総太を地面に転がしておいた男爵だが、暫く待ってもなかなか少年は眼を開かない。もう少し待て、もう少し待て、そう自分に言い聞かせてはみたが、終いには流石に心配になってきて、腹から胸の上へと歩いて、前手で総太の頬をひっぱたいた。
『総太。眠ってしまったのではあるまいな。このようなところで眠っては身体が冷えてしまうぞ。』
 ぱしぱし、と強めに頬を叩いてみるが、総太には反応がない。仕方がない、と男爵は爪を出した。
『起きぬか、総太!』
 鋭い爪が総太の頬を引っ掻き、薄く血を滲ませる。
「痛え……。」
 やっと総太は眼を開けた。微かにひりひりと痛む頬に手をやって傷があることを知る。
「ありゃ、こいつは男爵殿の仕業かい? ひどいことするなあ。」
『お前さんがこのような場所で阿呆のように眠りこけるからだ。』
「気持ちよかったんだ。仕方がないだろう。」
 のろのろと総太は身体を起こした。それに合わせて男爵は総太の胸から肩へと歩いて渡る。
「陽が陰ってきたなあ。」
 男爵が肩から落ちないように左手で支えながら総太はゆっくりと立ち上がった。
「……帰るか。」
『何だと!』
 総太は歩き出した。歩きながら首を捻って骨に音を立てる。
『総太よ。いま何と言ったか。帰るとは言わなかったか。』
「言ったけど。」
『それは如何なることか。お前さんは何のために出掛けてきたのかを忘れたのか。』
「いや、だってもう陽が落ちるしさ。」
『それしきのことで〈この世で最も価値ある宝〉を諦めると言うのか!』
「じゃ訊くけどさ、その御宝ってのは放っておいたら逃げちまうものなのかい?」
『む……。』
 口ごもった男爵に斜に顔を向けて、総太は笑った。
「判んないよなあ。男爵殿だってどんなものか知らないんだから。」
 竹林を抜けて、また下駄がからころ音を立てるようになった。陽は低く赤みを帯びはじめている。夕暮れどきの海辺の町を、作務衣姿の少年が猫を肩に乗せて下駄を鳴らして歩いて行く。からころからころと澄んで律動的でありながら何やら呑気な音を立てながら。それは傍目に見ればまるで諧謔であったかもしれないが、 他人 ひと から見て自分がどうであるかなどと、少なくとも総太は考えたことがなかった。自分から見てみっともなくなければそれでいいじゃないか。
「よお、総ちゃん。せっかくの作務衣を泥んこにしちゃって、どうしたんだい。」
 声を掛けてきたのは総林寺の檀家さんだった。御宅も寺に近い。
「んー、ちょっと宝探しに行ってて。」
「はっは、宝探しかあ。総ちゃんらしいねえ。しかし、その泥んこ、住持さんに叱られないようにしないとねえ。」
 商店街での買いもの帰りらしい檀家さんは、大荷物を自転車に載せている。夕餉の材料でも入っているのだろう。寺でもそろそろ薬石の準備をしている頃だ。
「いやあ、こいつはどうしたって叱られるでしょう。」
「わはは、まるで人ごとだ。いいねえ、総ちゃんはいつもおおらかで。まあ、叱られ方がひどくないように手を合わせとくよ。」
 そんな風に笑うと、檀家さんはまた自転車で走り出した。総太も休まずに下駄をからころ鳴らし続ける。
『汚れると叱られると判っていながら汚したのか。』
「いいや、汚したんじゃあない。汚れたんだ。それに、そのときそのときでやることに後々のことまで考え合わせたりするほど俺は賢くはないんだよ。後で困ることは後で困ればいいんだ。後で困ることをいま困る必要なんてないんだから。」
『……判るような、判らぬような理屈だな。』
 夕陽を浴びながら、総林寺の参門をくぐる。斎堂では住持であり典座である総太の父が薬石の仕度に忙しくしていることだろう。わざわざ忙しいときに叱られに行くこともない。総太はそのまま本堂に入った。下駄を脱ぎ、その場で一足をきちんと揃える。それから、堂の奥へと進む。そこで男爵は総太の肩から板間へと飛び降りた。
『……何も手に入れぬまま、何処にも辿り着けぬまま戻ってきてしまったな。』
「いや……。」
 総太は懐に押し込んである地図を取り出した。もともとが古いものの上に無造作に扱っていたものだから、くしゃくしゃになってしまっている。
「この地図の目的地って、ここなんじゃないのか?」
『何だと? また異なことを吐かす。』
「万法帰一って言ってさ、総てのものは一に帰るんだ、円相を為してね。」
 総太は手に持った地図から足許の男爵に眼を転じた。
「お前さんの眼と おんな じだよ、男爵殿。上がり眼も下がり眼も、ぐるっとまわせばにゃんこの眼だ。ぐるっとまわってもと通り、て訳さ。」
『何を……では、総太。お前さんは宝を見つけたとでも言うのか。』
「そんなことを訊くってことは、男爵殿、お前さんは何も見つけてはいないんだな。」
『何と。総太、お前さんはいったい何を手に入れたと言うのだ。』
 その問いに、総太は破顔した。
「何にも。それが一番の御宝じゃないかねえ。」
 屈託なく笑う総太を、男爵は見上げた。
 男爵は にゃあ ・・・ と一ト声、鳴いた。それきり、男爵の声が人の言葉として総太の耳に届くことはなくなった。猫らしく音も立てずに板間を歩き、男爵は本堂から境内へと身軽く出て行った。
 堂門から見える境内には赤みを帯びた陽光が落ちかかり、渡る夕風はすっかり夏の色をしていた。

〈了〉

0403010319.Mon.
400字詰原稿用紙換算枚数36枚

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