忘 草

 扉が閉まる。それを見届けた彼は自らも知らぬうちに利き手である左手を固く握り締めた。
 奴は何故オレを撥ねつけなかった。認めない、と告げたはずなのに。はっきりと明言したというのに。己れを認めないというそのことさえも認めようというのか。…… 子供 ガキ のくせに小賢しいものだ。
 気に入らない。―――気に入らない、何もかも。
 彼は拳を固く握ったままで、如何なることがあろうと認め得ない青年が静かに閉めた扉を暫し睨んで、小さく舌打ちをした。その舌打ちが奴―――青年に向けてのものだったのか己れに対してのものなのかは、彼自身にも判らない。
 微かながら抑えきれない苛立ち。奴のせいだ。彼は思った。奴が現れるまではこんな風に感情を乱されることなどなかった。
 己れのものでない気がするほどに波立った感情を解こうと彼は意識を向けて拳を開いた。その手で、狭い部屋の真ん中に置かれた長尺の卓の前に並ぶ椅子を一脚、引く。乱暴に腰を下ろし、 上衣 シャツ の胸ポケットを探る。そこには深い青色の 紙箱 パッケージ の煙草が収まっている。
  GAULOISES ゴロワーズ 仏国 フランス 製の両切り煙草。はじめて喫った日から早や一四年が過ぎた。あの日は強い風が吹く日だった。彼は紙箱から紙巻煙草を一本、取り出して口に咥えた。窮屈な 襟飾 ネクタイ を緩めてから 下衣 スラックス のポケットに手を入れ、重みのある銀色の 点火器 ライター を引っぱり出す。蓋を開けると 揮発油 オイル の匂いが つん ・・ と鼻をついた。何処か懐かしい匂いに惑わされぬうちに火を点して煙草につけ、直ぐに片付ける。火が点いた煙草を一度、大きく喫った。
 いがらっぽい煙が喉や鼻腔に流れ込む。一〇年以上喫い続けているが、彼は同じ銘柄の煙草を喫う者を、 彼奴 ・・ 以外に見たことがなかった。吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。白い煙が眼の前に漂う。彼はそれを、寒い日の吐息のようだと思った。

 

 一六歳の夏。彼は学生寮の居室にひとりきりでいた。全寮制高等学校の生徒だった。寮舎は数日前からひっそりとしていた。
 学校が唱える歴史だとか伝統だとかいうものを体感しろと言わんばかりの旧さを矜る木造寮舎は、その旧さに見合って設備も旧く、空調機が稼働していても少しも涼しくはなかった。だが彼は生家にいるよりはずっとましだと思っていた。
 居室の扉は閉ざしてあるが窓は開け放している。空調が効かないのなら風を入れた方が余程涼しい。窓外には強い風が吹いていて夏空は透けるように青かったが、そこをすべるように流れる雲は薄墨の色をしていた。天候の不安定なことを押し隠すようにして快晴を装う夏空を、彼は何とはなしに好かないと思う。その理由を探す気にもならない。
 学校は幾日か前に夏期休暇に入り、学生は皆、親許に帰省して旧い寮舎には寮監と彼だけがいた。耳に音として聞こえそうな静寂が辺りには満ちていたが、彼にはその方が居心地がよかった。 他人 ひと と交わるのは苦手だ。寮監は寮舎を監理するが居室を覗いて学生の管理まではしない。誰にも邪魔されずに 寝台 ベッド に身を横たえていられた。
 その静寂を破って居室の扉が乱暴に開いたことを、だから彼はよろこばなかった。煩わしいと思った。
「おい、詳。くたばったんじゃねえだろうな。」
 蹴破るほどの勢いで扉を開けるなり大きな声で彼を呼んだのは、髪を短く刈り込んだ、面差しの何処かにまだあどけなさを残した少年だった。この居室での彼の同居人であり、彼の詳一という名を詳と縮めて呼ぶ唯一の男だ。 騒々しく姿を現したかと思うと上下二段に組まれた寝台の下段に横たわる彼の眼の前に顔を突き出してくる。
「……何だ。」
「何だとは御挨拶だな。煙たそうな面しやがって。」
 少年は笑った。蓮っ葉なもの言いに不似合いな、屈託のない笑顔だった。
 少年の笑顔を見てしまった彼は仕方なく身体を起こした。壁際に寄せられた寝台の上で、壁に身をまかせる。外からやってきた少年は無遠慮にその寝台に上がり、肩から提げている布製の鞄諸共に彼の隣りに座した。邪魔だと言い放ってもまるで悪怯れもしないだろう少年の横顔を見やりながら、彼は吐息混じりに訊ねた。
「どうした。別荘で夏を越すんじゃなかったのか。」
 少年は吐き捨てるように答えた。
「そんな家族ごっこ、やってられるかよ。これ以上うるさくされねえようにこの面、拝ませてやりに行っただけだ。」
 微かな幼さを掻き消して、少年は面差しに不機嫌さを露わにする。彼は何も言わなかった。長期休暇に顔を見せてやりにわざわざ実家に出向く分、まだ少年の方が情がある。電話と寮監越しに再三の呼び出しが掛かるものの、彼は長い夏期休暇がはじまってもずっと寮舎に居すわったままだ。
 少年は提げてきた鞄の中を探った。ふとその手を止めて彼に顔を向ける。
「詳。邪魔だったか、俺?」
「何故だ。」
「いつもにも増して不機嫌そうな面してやがるからさ。」
「いまのお前よりは幾らかましだ。」
「その台詞、そっくり返してやるよ。」
 そう言って少年はやんちゃに笑ってみせ、また鞄を探る。教師連中や同級生たちは少年と彼とを似た者として扱ったが、たとえ偽りのものとしても笑顔をつくることができるのが二者の決定的な相違だと、彼は思う。うらやましさはない。何故できるのかは疑問ではある。
 少年の手が鞄の中から深い青色の箱を引き摺り出した。英文字が印刷されているのが見て取れる。外国語だということは判ったが何処の国の言葉なのかは見ただけでは判らなかった。 人間 ひと の二の腕ほどの大きさの箱を開けると今度はその中から手掌ほどの大きさの箱が出てくる。一見して煙草だと判った。
 その封を切って、少年は紙巻煙草を一本、口に咥えた。 下衣 ズボン のポケットから銀色の無骨な 点火器 ライター を取り出して火を点ける。手慣れたものだ。早いうちから煙草を喫う習慣を身につけていたのだと知れる。
「ほら。」
 火が点いた煙草を咥えたままで呟くように声を掛け、少年は手に持っている小さな箱を彼の方へと差し出した。封を切った口から一本だけが半ばまで突き出ている。それを見て彼は一瞬だけ、少年が箱を上下逆にして封を切ってしまったのだと思った。突き出した一本の端から刻んだ葉が見えていたからだ。しかし箱の上の文字を見ると逆ではなかった。
「遠慮すんな。」
 彼が直ぐには手を伸ばさなかったので少年はそう言ったのだろう。遠慮などしたつもりもない。ためらわれたのは確かだ。それはおそらく経験がないことに出会ったからだ。少しの間、黙っていた。すると少年はにやりと笑った。
「どうしたよ。ちょっとでも長生きしたいってか?」
 挑発するような口振りだった。彼は煙草から少年の方へと眼を移した。照明を点けない薄暗い居室の中で、少年越しに窓外の夏空が青い。青さの中に不釣り合いな、雨を呼びそうな灰色の雲が走っている。
「…… かせ。」
 彼は少年の挑発に乗った。抵抗はなかった。
箱から棘のように突き出た一本を掴み出す。掴んだ煙草には、どちらの端にもフィルタが付いていなかった。葉っぱが口の中に入るけど気にするな。言いながら少年は点火器の火を点けた。窓が がたん ・・・ と音を立てた。風が吹いたのだ。
 窓枠を鳴らして夏の風が吹き込んでくる。少年は少しも慌てる風を見せずに煙草の箱を手離して、空いたその手で火をかくまった。彼は煙草を咥えて軽く吸い込んだ。刺激があった。舌を刺すような味だ。旨いとは思わなかった。燃えると言うより焦げているような匂いがする。厭ではなかった。煙草の先から漂う煙を、もう一度緩く吹いた風が掻き消した。
 何も言わないままに煙草をくゆらせた。次第に煙草は短く灰は長くなっていく。また窓が鳴った。強く吹き過ぎたのか風は入ってこなかった。煙草一本が燃え尽きるまでの時間は短くはないと、彼は思った。
 彼の口許から灰が落ちる前に、少年が小さな合金製の箱を黙って差し出した。燐寸箱を少し大きくしたようなそれは携帯用の灰皿らしい。先に少年が自分の煙草から小箱へと灰を落としてみせる。何処に灰が落ちようが構わなかったが彼はそっと口許から煙草を離し、少年に倣った。
「なあ、詳。煙草ってな……。」
壁に背を預け、漂う煙を遠い風景のように眺め見ながら、少年が呟く。
「またの名を忘草って言うんだとよ。」
 わすれくさ。
 耳慣れぬ、はかなげな言葉の後に、またの名っつっても あそこ ・・・ のことじゃねえぞ、と下品な諧謔を口にして、少年は自嘲するように笑った。笑わないままの彼は続く言葉を待った。
「憶えていたくもねえことを忘れさせてくれるんだとさ。得体の知れねえ憂さを晴らすには丁度いい代物じゃねえか。」
 得体の知れない。理由の見当たらない焦燥ややり場のない苛立ちや……そんなものを指してそう言っているのだろう。問い返すことはせずに彼は、そう思っておくことにした。口許では煙草が燃え続けている。斜に眼を向けた先ではもう一本の煙草から煙が流れ出ている。
「詳。お前にもあるんだろう、頭の中に―――腹の底に収い込んどきたくなんかねえものが。」
 お前こそ。独白のように言った険しい横顔を眼にした彼の口はそう言おうとした。問う必要などないことだ。思い直した彼は言葉の代わりに煙を吐き出した。白い煙は細い糸のように緩い風に乗ってなびいた。
「親父からごっそりくすねてきてやった。売って儲けるほどある。」
 提げてきた布製の鞄を少年の手が、彼からは見えないところで叩く。乾いた音だけが耳に届く。肩から提げているところを見た。大きな鞄だった。中身はすべて煙草だったのか。いったい何カートンくすねてきたのか。訊いても何もならない。
「勝手に喫っていい。忘れたくなったら、一服点けろや。」
 窓外の空は夏らしく青く晴れている。だが少年の横顔には暮色が透けて見えた。暮れる陰から煙草の灰が落ちる。 敷布 シーツ が汚れたが咎めるつもりはない。彼の口許からも寝台の上に灰が落ちた。赤熱の火が口唇を焼こうかというほど近付いている。焼かれても構わないと思った。それでも、隣りにすわっている少年には火傷をしないうちに消せと言った。

 

 あの夏の日に少年がよこしたのと同じ銘柄の煙草を、彼はいまも喫い続けている。一六歳のときに旨いと思えなかった煙草は、三〇歳になったいまもそうは思わない。
 忘草、か。
 口に出さずに彼は呟いた。お前の記憶は一服点ける度に鮮明になっていくぞ、拓次。
 いまはもういない少年。一六歳の時には同い年だったのにいまは同い年ではいられない彼奴。彼は短くなった煙草を口から離し、彼のためだけに卓の上に据えられている灰皿の中で揉み消した。我知らず薄い口唇を噛む。
 己が身に何ごとが起ころうと、いまの彼にはどうでもよいことだ。だが、記憶の中には、消し去ろうにも消せずにただ深いところに封じておくことしかできない記憶には、悔やまずにはいられないことばかりが残っている。
 何故オレは彼奴と出逢ってしまったのか。何故生き延びることを択び、そして何故奴と出逢ってしまった。
 何が間違っていたのだ。選択か。この世に生を受けたことか。生きながらえてしまったことか。……しかし。
もしもこの世に生きる数十億の人間がひとり残らずお前が悪いのだと己れを指差したとしても、彼は言い続けるだろう。
 悪いのはオレじゃない。
 オレは間違ってなどいない。
 その真偽は問題ではない。とにかく言い続ける。 オレは ・・・ 悪くない。
 悪いのは奴だ。彼奴と―――何ものにも代えることのできぬ彼奴と過ぎるほどに、見紛うほどに酷似したその姿で面差しで名で笑い方で、このオレの前に現れたのが悪いのだ。その姿、その面差し、その名、その笑顔で、オレを欺きオレの厳重に封じた記憶を混ぜ返し、穢した。
 許し難い。許せる訳がない。奴とオレとは出逢ってはいけなかったのだ。そもそも彼奴と酷似した男―――男とも言えないような奴が存在すること自体がこの世界の不条理だ。奴は、存在してはいけないのだ。
 認めない。認めない。認めない。この世のすべてを敵にまわしても、オレは奴を認めない。
 一四年前に理由なく身体の奥底に澱んでいた焦燥、行き場のなかった苛立ちが彼の深奥に蘇る。いや、理由も行き場もある。奴だ。奴のせいだ。こんなにひどい気分なのも苛立ちも焦燥も、何もかも奴のせいだ。捌け口とすべきは奴だ。
 彼は奴―――青年を真っ直ぐに憎んだ。おそらく二度と己れの前に現れることはない。たとえそれでも彼の憎悪は鎮まることも失せることもない。殺意とすら言い得る憎悪は、煙草に火を点ける度に鮮やかになりゆく彼奴の記憶が消えない限り、つまりは彼の生命が尽きるまで、彼の生への本能が駆逐されぬ限りは消え失せることがないだろう。
 彼は再び 上衣 シャツ の胸ポケットに手をやった。新たに両切り煙草を一本、取り出して口に咥える。銀色の、表面に〈T〉と小さく刻まれた 点火器 ライター 下衣 スラックス のポケットから出して煙草に火を点けた。点火器の蓋を閉じる金属性の音と、彼の背後で扉が開く音が聞こえたのはほぼ同時だった。
扉から姿を現した男が何の迷いもなく彼に声を掛ける。
「いつもにも増して不機嫌そうな顔をしてるな、 岸谷 きしがや の。」
 奴が何も言わずに閉めた扉は彼の真正面にある。それとは別の扉から出てきた男は気兼ねなど霞ほども見せず、彼の隣りの席に腰を落ち着けた。鼻先近くまでずり下がった眼鏡を掛け直しながらの問いが彼に降り掛かる。
「望まない結果になったか?」
「……いや。」
 違う、とでも言いたかったのか。
 不意に言ってしまったものの確たる答えを見つけ出せずに、いがらっぽい煙を吸い込むことで彼は己れをごまかした。隣りにすわっている男までをもごまかしきれたか否かは判らない。
 おそらくはごまかしきれてはいない。この五歳ばかり年長の男は常に呑気そうな色を面貌に見せてはいるものの、その双眸には鋭い光が潜んでいるのだと彼は知っている。曖昧なことを口に出してしまえば己れでさえ気付かぬ本心をえぐり出されてしまう。
 その畏怖嫌厭をすら見抜く眼が、眼鏡の奥から彼を捉える。剃刀のような鋭さをぬるま湯のような呑気さに隠して。
「お前さん、煙草の数が増えたろう。……そうだな、彼奴がこの店に勤め出してから。」
 答えなかった。白い、濁った煙を細く吐いた。眼鏡の男も返答など期待してはいなかったのだろう。直ぐに句を継いだ。
「判ってるんだろう、片恨みだってことくらいは。」
 それはひとりごとのようでもあり、世間話のようでもあった。
「そろそろ忘れてやったらどうだ。お前さんの記憶とやらに縛りつけておくのも気の毒じゃないか? 大切な奴なら、なおさらだ。」
 この男が言わんとしていることは判らないではない。しかし、それでも。
 煙草の匂いは彼奴に繋がっている。たゆたう煙は彼奴の面影を描き出す。隣りで男はひとつ息をついた。聞き慣れた声が聞き憶えのあることを言うのを、彼は耳に拾った。
「知ってるか? 煙草には忘草って異名があるんだ。悼みやら哀しみやら……早く忘れっちまうために、煙草ってものがあるんだそうだ。」
 身体の何処かが、細い針で刺されたように痛むのを感じた。灰が落ちそうに長くなった煙草を口から離す。灰皿の上に差し出したところで、丁度灰が落ちた。聞き慣れた声が告げる。
「忘草には逆らわん方がいいんじゃないか。」
 逆らった憶えなどない。思いはしたが口には出さなかった。灰を落とした煙草をもう一度口にしようとして、そうするには短くなり過ぎていることを知る。一〇年以上も喫い続けて慣れてしまっているはずの煙草の長さを読み違えるとは。彼は口の中で小さく舌を鳴らした。
「早いところここで喫うのはやめて貰いたいもんだが、いま直ぐやめろとは言わんさ。……お前さんが忘れっちまうまではな。」
 深刻ぶらない間延びした声が言う。煙草を咥えていない口から煙のように、彼は細く息を吐いた。彼奴にひどく似過ぎた青年が姿を消した扉をもう一度睨んで、短くなった煙草を灰皿の中に捨てた。火は消さなかった。
 煙草が燃え尽きてしまうまでにはもう少し時間が掛かりそうだと、彼は思った。

〈了〉


0412110014.Sat.
400字詰原稿用紙換算枚数19枚

Copyright © 2004- office es All Rights Reserved.