夜の狭間で  (「ぼくたちの失踪」より抜粋、改題)


 白い運動靴が、赤みがかった地面を蹴りつけた。
 素足に白い運動靴を履いた少年が全力で一直線に疾走する。その傍らを、体操着姿の少女の一団が拍子を取りながら駆け足で通り過ぎる。疾走の少年が目標の旗手に辿り着く頃、甲高い金属音とともに白球が天に舞い上がった。
 校庭は、決して広くはなかった。幾つもの運動部が限られた空間を、ジグソーパズルのよう小分けにして使っている。見えない境界線の引かれた地面の上で、思い思いの運動着を着けた少年は、少女は、それでも精一杯に躍動している。顔や腕に汗を滲ませ、息を弾ませ、その表情は苦しげでありながら充実している。
 別世界だ。加西崇少年は思った。
 校庭に面したふたつの校舎を繋ぐ中空の渡り廊下から、校庭を眺めていた。眼鏡越しに見る午後の校庭は、強くなりはじめた晩春の陽光とも相まって、とても眩しく見える。躍動感、活気、充実感 ―――その光景にはそんなものが充ちていたが、そのどれもが自分とは無縁のものだと、黒い詰襟の制服を校則通りに着込んだ崇は思う。うらやましいとは、思わない。
  校庭を駆ける少年たちの中には、崇の同級生もいた。学級委員に祭り上げられ、参ったなどと困った風を装いながらも内申点の向上をよろこんでいた奴だ。薄茶色に汚れた、もとは純白なのだろう運動着姿で、同じ色の硬球を追いかけている。
 彼等にとって、間もなく訪れる今年の夏は「高校生活最後の夏」である。大切な夏を充ち足りた、栄えあるものとするために、三年生は一ト際張り切るのだ。同級生たちにとってそうであるように、崇にとってもこれから迎える夏は「高校生活最後の夏」であるが、崇にとって特別なことは何もない。黒い詰襟を着ない季節が来るだけのことだ。
 渡り廊下は校庭に面している。崇が見た校庭は、遠かった。また歩き出す。護謨底の運動靴は混凝土造りの廊下の上ではたいして音をたてなかった。校舎の中には、やわらかな靴音だけがあった。
 進路指導室は、別館の三階にある。渡り廊下を渡りきって直ぐのところである。他の教室の軋む木戸と違い、別館の教室の扉はなめらかに音もたてずに開く。進路指導室も同様だ。崇が一方の手を掛けると、大きな硝子が入った扉は室内の静寂を破ることなく開いた。
 部屋は、柱や隣室との兼ね合いでL字型になっている。入口に近いところには大学や専門学校 などの資料が揃えられていて自由に閲覧できるようになっており、突きあたりから最奥部にかけての長方形部分に進路指導担当教諭の机が並んでいる。教師陣が在室かどうかは、机の手前に衝立が置いてあるために入口からは確かめられない。
「垂久先生、おられますか。」
 痩躯に似合ったテノールで、崇は部屋の奥に向かって呼び掛けた。程なく、はいおりますよ、と年老いた声が応える。その道化た調子に取り合う柔軟さは、いまの崇にはない。
「加西ですが。」
「入りなさい。」
 垂久教諭は進路指導の担当であると同時に、崇の担任でもある。前頭部から頭頂部にかけてが禿げ上がった、白髪混じりの老教諭だ。崇が彼に呼び出されたのは、素行や成績がよくないなどの理由があるからではない。むしろ、崇はそのまったく逆の生徒であった。呼び出されたのは、進路相談のためである。崇が衝立の向こうを覗くと、垂久は窓を背にして椅子にすわり、黒い表紙の名簿を開いていた。
「まァ、掛けなさい。」
 室内にいるのは、垂久と崇だけだった。垂久の隣りの席も向かいの席も空席になっている。そこにいるはずの教師たちは、職員室の方にでもいるのだろう。垂久が差した向かいの席の椅子を引き寄せて、崇は腰を下ろした。
 照明は点いていたが、窓から差し込む陽光が強くて室内は薄暗く感じた。窓は開け放していても、いまは風がなくて少し暑い。垂久も背広の上着を脱いで椅子の背に引っ掛けている。崇の襟のフックは、きちんと留まっていた。頁の決まった名簿が、机の上に置かれた。
 それは、崇の頁だった。並んだ文字がレンズを通して崇の眼に映る。〈加西崇、三年F組出席番号 五番、評定平均値四・八……〉。そこまで読みとれたところで、風が短く吹いた。名簿の頁が幾枚もめくられてゆく。
「おっとっとっと……。」
 口を尖らせながら垂久はめくられた頁を手掌を翻しながらもとに戻す。崇も短い髪を風に掻き乱されたが、気にはならなかった。暑いとは思っていたので、快くはあった。衣替えの時期まで、あと三週間ばかりある。
 評定平均値というのは、主要教科の成績を合計し、教科の数で割って平均を出した値だ。成績は五段階評価で、一番よいのが五、最低が一である。総ての教科で五を修めたなら、評定平均値は即ち五となる。だから評定平均値四・八というのは、かなりの好成績である。
「ふん……相変わらず加西くんは成績がいいねえ。学年主席、秀才の誉れ高い訳だ。」
 鼻唄混じりに、垂久は名簿に眼を走らせる。確かに誉められたはずだが、崇はうれしいとは感じない。背を丸めてただすわっている。
 校庭の方から、一ト際大きな歓声が飛び込んでくる。誰かファインプレイでもしたのか。老教諭はちらりと眼だけを声の方に向けたが、崇は宙を見つめたままだ。興味を引かれてならない、というものは、ここ何年か崇の前に現れることがなかった。垂久は直ぐに名簿に眼を戻した。
「……ええと、加西くんは進学組だったねえ。志望校は、ほう……天下の修学院大学か。」
 同じだ。崇はぼんやり考えた。修学院大学志望。それを聞いた者は大抵、老教諭のように驚くか、 またはそのふりをしてみせるのだ。
「まァ、君なら王立大学だって合格間違いないぞ。修学院なら主席入学も空想で終わらんだろうね。」
 随分、自信がありそうだ。御機嫌よろしかろう垂久を見て、他人ごとのように思う。
 修学院大学は、国内の大学の階級ピラミッドでは頂点に窮めて近いところに位置している。崇の住む国は王政を執っており、代々の国王は王立大学を卒業していたが、その慣習を破って現在の国王、城見広洋が択んだ大学として、修学院はその名を知らしめた。だが、崇が修学院を志望している 理由は、ここにはない。
 老眼鏡の弦をつまんで持ち上げながら、垂久はちょっと声高に言った。
「心配はないな。いまの調子でいけば、君が入試を放棄せん限り、修学院は合格できる。」
 断言があった。よろこぶとか、安堵するとか、矜るとか、何か感情の変化が、表には出ずともあっていいはずだった。己れのこころが動かないことにさえ、崇は異を感じはしなかった。口数も少なく、感情を明らかにしない男子生徒を、垂久教諭は訝ったり、咎めたり、或るいは鼓舞しようと試みたりはしない。「そういう」生徒だと理解しているのかもしれない。それはそれで、崇には有難かった。
 二年前の入学式で、崇は新入生代表として壇上に立った。主席入学だった訳である。羨望する者は いても誉める者はいなかったし、崇自身、矜ることも羞じらうこともなかった。それきり、校内で 殊に目立つことはない。「教えれば理解する」、「指示通り行動する」生徒であったから、手が掛からないのだ。ひどく劣る教科がある訳でなく、問題を起こす訳でなく、ただ、おとなしい大勢の中のひとりであった。それがために、垂久に限らず、教師と崇との間には、互いに深く関わる必要のない関係ができ上がっていた。つくろうとしてつくったものではないが、そういった他者との関係は、崇には都合がいい。持ってもいない展望や感じてもいない感動を分かち合うことを強要されずに済む。
 明確な返答を期待していなかったのか、崇の相槌すら待たずに垂久は言葉を次いだ。
「何なら志望校を王立大学に変えたって構わないぞ……と言っても変えるつもりはないだろうがね。お父さんと同じ大学に行きたいものな。」
 眼鏡の黒い縁に隠れて、崇の眉は僅かに下がった。相変わらず窓外の陽光は強い。
「いやはや、優等生の子は優等生ということかな。……加西くん、君の将来は約束されている。いまの調子で励みたまえ。」
 また、風が吹いた。
 暖かい風だ。耳許をかすめて吹き抜ける。短い風。額は汗ばんでいるものの、崇は寒さを感じた。 体調が思わしくないときに感じる、あの寒気とは違う。冬の寒さだ。窓外に覗く晩春の陽光を、暗いと感じた。刹那の厳冬―――。
 瞬間過ぎれば、室内はやはり暑い。手掌に汗が滲む。将来は約束されている。崇は、自分の足許を見つめた。項垂れる仕種が頷くように見えたのか、垂久は間もなく面談の終わりを告げた。崇が黙り込んでいることも、身体を震わせたことも、気付いたか気付かなかったか触れないままに。
 昨日とも、おそらく明日とも変わらない穏やかに活気に満ちた午後が、窓外にはあった。崇は、自分が時間の流れの外にいるような気がしていた。

 

「崇さん。今日は個人面談があったのでしょう。」
 顔を映すような光沢を持った食卓の対面から、母、美智子が静やかに問い掛けてくる。崇は数えるほどの米粒を、やっとのことで嚥下したところだった。
加西家の夕食は、例外なくもの寂しい。籠さえ取り付ければバスケットボールに興じることもできるだろう広々としたダイニングルームで、崇と美智子がふたりきりで食事を摂るのだ。音はたてないのが作法であり、会話も雨垂れのようにぽつりぽつりとしか現れない。気を付けたなら空気の流れる音さえもが聞き取れそうな時間が、決して少なくはない。それも、好ましくはないかもしれないが厭わしいものではないと、崇は思っている。
 美智子の声は、声楽家のようにうつくしい。
「先生は、何と仰っていましたか。」
 しかし崇は、このうつくしい声が唄う子守唄を、憶えてはいない。上品な抑揚の会話文だけが、同居人の記憶だ。父の声は暫く耳にしていないので、忘れてしまった。学校で家庭調査などの記入などが指示されることがなければ、父の「勝征」という名も忘れてしまうに違いない。
「はい……。」
 左右それぞれの手に一種ずつ持っていた銀色の食器を卓上に置き、向かいにいる女性に似た抑揚で 崇は朗読をはじめた。昼間に進路指導室で聞いた話を頭の中で再構成して、それを読み上げる。静かな声だったが、空気の流れよりはずっと大きく響いた。
 美智子は微笑を湛えている。息子の好ましい報告が、笑みを引き出しているのか。その穏やかな表情もやはりうつくしかったが、人工美だと崇は思う。人工物の子は人工物なのか。自分の喋りようはまるで外国語を翻訳している機械のようだと、声を発しながら感じていた。
喋り終えると、少し俯いた。矜らしげに胸を張っていてもいいものを。それでも向かいからは、朗らかな声が届いた。
「……まあ、それはよろしいことですわ。御父様にお伝えしたら、きっとおよろこびになるでしょう。」
 頷いてみた。同意はできなかった。父の声は憶えてはいないが、ものの言いようは憶えている。いまここにいたなら、きっと厳しい顔つきでこう言ったはずだ。
「当然だ。私の息子なのだからな。」
 父と言葉らしきものを交わしたのは、随分以前のことだ。朝早く出社し夜遅く帰宅する父は、崇が 起きている時間には家にはいない。時には帰宅しないこともある。仕事の鬼とでも言おうか。強引なところも多々見受けられるが辣腕家である、というのが社内での評判らしい。辣腕家かどうかはその実は知らないが、かなりの自信家であることは確かだ。いつか、こんなことを言っていた。
「崇。お前が学校を出る頃には私は社長の椅子にすわっていることだろうが、入社試験で気心を加えるようなことはしない。だが必ず私の会社に入社してみせろ。……判ったな。」
 これが最後に聞いた父の言葉だったろうか。はい、と返事したことを憶えている。父に対する返答は「はい」以外は許されない。
 美智子もまた、同じことを言う。 「貴方のことですから心配など要らないのでしょうが、御父様の息子として恥のない人にならなくては ならないのですから、先生のお褒めに慢心せず、これからも懸命に励んでくださいね。」
 人工美の微笑。崇は眼の前の女性に、実体を感じない。父がよしとする条件を組み込まれてつくり上げられた立体映像のようだ。痩身。唄うような声。切れ長の眼。美術館に行けば似た像の一体や二体に会えるかもしれない。そして「御父様のために」。
 すべては父のために。
 父の言いつけ通りに生活し、父と同じ大学に進み、父のいる会社に入社して……何れ父と同じ墓に入るのだろう。昼間、垂久教諭が言った通りだ。将来は約束されている。父の軌道を辿ってゆくのだ。 あれこれ思案する必要はない。辿る道は既に決まっているのだ。―――予め整えられた道を歩き続けることの意味は?
 もう一度、銀の食器を手に取る気にはならなかった。眼の前の皿に大半料理を残したままで崇は食卓を離れた。美智子が引き止めようと声を掛けてきたが、丁寧に断った。
 自室に戻ると、その足で崇は勉強机につく。食事、入浴、睡眠。それ以外の時間は机の前にすわるのが習慣になっている。教科書や参考書を広げて、姿勢を整える。これからは、自分ひとりの時間だ。
 勉強は嫌いではない。智識を得ることは愉しいし、少年らしい探求心も一応のところ持ち合わせている。「何故」を追求すれば学問になる。高校に上がってからは自室での独習の時間が、崇にとって最も落ち着ける時間だった。
 教科書を広げると、授業の内容が想起される。それを反芻し、理解を深め、更に予習の段階まで進める。いつもやっていることであり、意識を向けなくとも自然にできることだ。しかし今日の崇にできたのは、教科書を広げるところまでだった。想起されるのは授業の内容ではなく、垂久教諭の言葉だ。
 君の将来は約束されている。
 今年の誕生日をまだ迎えていない崇は、現在一七歳である。人生八〇年として、残りはあと六三年。長くないと言う者はおそらくいない時間だ。その決して決して短くはない生涯に辿りゆく道筋が、既に明らかになっている。将来が約束されているとは、つまりそういうことだ。
 予め正路の判っている迷路図で遊びたいと思う者が、果たしているだろうか。
 多くの分岐の中から正路を探しながら眼を惑わすような図を抜け出すところに、迷路図の愉しさはある。少なくとも崇はそう思う。垂久の言葉を聞いた午後、現世から閉め出された気がした。
 これが、父の望んだことなのか。秀れた男は己が子に更に秀れたることを要求し、言った。
「私の息子であるからには、少なくとも私と同等かそれ以上の能力を示さねばならん。それがお前自身の、ひいては私の評価に繋がるのだ。父の評価を落とすような不孝者にはなるな。」
 背かぬように、従ってきた。それが当然のことと思っていた。父の望むように、言う通りに。いま思う。何故だ?
 息を大きく吸い込んだ。そうしないと、空気が身体の中に入ってこなくて苦しいからだ。二度、三度と深呼吸を繰り返す。近頃、こうして意識して呼吸しないと息苦しくなることが度々ある。眼窩の奥も痛む。身体の何処も悪くはないことは判っている。教科書を閉じて、部屋を出た。
「散歩に出ます。」
 それだけを家人に告げた。返事があったかなかったかは知らない。家の外はすっかり陽が落ちて、夜があった。厚手のシャツを着てはいたが、それだけでは少し肌寒い。しかし天には円い月があった。

 小学校に入学した日のことである。
 崇は紺色の三ツ揃いを着せられて記念の写真を撮った後で、両親からこう言われた。
「一生懸命勉強しなさい。優秀な成績を修め、よい学校に進みなさい。それが親孝行だ。」
 この言葉の意味は、まだ七歳に満たない崇にはよく判らなかった。勉強するとはどういったことなのかは、間もなく否応なしに知ることになる。家庭教師が、やってきたのだ。
 崇には、塾通いの経験がない。小学校入学から高校入学まで、ずっと家庭教師がついていた。学校にしろ塾にしろ、大人数が同じ講義を受ける場所に通っても他者より抜きん出ることはできない、というのが、父、勝征の考えるところであった。
 法で定められた義務教育の九年間、夏休みも冬休みもなく家庭教師は崇の許に通ってきた。勿論 その数はひとりに留まらず、九年間通い通した者はひとりとしていなかった。
 学校でも家でも勉強に迫られる毎日ではあったが、不思議に勉強が嫌いにはならなかった。もともと好奇心が強く、新しい智識を得ることを娯楽と感じる少年だった。また、何人か代替わり した家庭教師の中には、少年の好奇心に巧く触れてくる者もいたのだ。
 こんな者もいた。
 幾人もの家庭教師たちと出会ってきた中で、崇は彼のことを最も強く記憶している。小学校の五年生のときに半年間だけ教えて貰った霧嶺次郎という大学生がその人である。
 五年生の一学期末試験で、崇は算数だけ八〇点台を取った。夏風邪に捕まり、熱っぽかったせいで判断力が鈍っていたのだろう。他の教科はすべて満点か、低くてもそれに三、四点足りないくらいだった。成績が落ちたと、父から小言を貰った。
 次の日からは、それまで来ていたもと教員の女性家庭教師はぷっつりと来なくなった。クビになったのだ。成績が下がるような教え方は職務怠慢だとして父が容赦なく切り捨ててしまったの だった。はじめてのことではなかったが、崇は天を仰ぐのが躊躇われた。己れの至らなさが、他者に非難を浴びせてしまうのだ。
 鬱屈した気持ちのまま、新任の家庭教師を迎えた。今度は男性だ。父と同じくらい背が高く、肩や胸が大きくてがっしりとした青年だった。はじめて会うのに、その青年は顔全体で一笑して大きな手を差し出してきた。この青年が、霧嶺である。応えて崇が手を差し出すと、大きな手は しっかりと強い力で握り返してきた。ぎゅうぎゅう握られた手は少し痛かったが、言い知れぬ安心感を 崇は感じはじめていた。
 霧嶺は王立大学獣医学科の博士課程に在籍していた。六年で卒業して就職口を探そうと予定していたところを、並ならぬ優秀さを認めた大学側から引き止められて、博士課程に進んだのだという。無論、それくらい秀れた者でもなければ加西家の主が雇うはずもない。確かに、霧嶺は優秀な教師であった。それは、後に崇の成績が浮き沈みを見せなくなり、高水準を維持するようになったことからも 判る。
 崇は、学校の授業より霧嶺の授業の方が好きだった。霧嶺はたとえ話が巧く、根気よい教師であったからだろうと、後に崇は回想する。理由はもうひとつあった。「課外授業」の存在である。
 それは、霧嶺赴任の日からあった。
 はじめは、算数の勉強をしていた。学校の授業の復習、その範囲の問題集を何頁か、それから、次単元の予習。霧嶺のやり方は、崇がそれまで教わった家庭教師たちと同じだった。違うのは、復習の時間が長いことだ。
 講義の後に、類題を幾つも幾つも与えられた。似たこと―――同じことの繰り返しに、崇は ちょっと厭気がさす。この手の問題なら何度やったって、居眠りしながらやったって間違えない。 繰り返すことがそんな自信を生み出した。崇がそれに気付いたのは、もっと後のことだ。
 予習も似たやり方だった。予習の後には発展問題やもっと先の単元の予習までやるのが、これまでの常だった。これ等もまた、類題攻めになるのかと、飽きはじめていた崇には先が思い遣られる。だが、次単元の内容を崇が概ね理解したと見るや、霧嶺は手にしていた鉛筆を机上に転がした。
「それじゃあ、算数はこれでお終い。」
「算数は」お終い。だから、続いて違う教科に移るものと、当然の如く崇は思った。切り上げるには早過ぎると言える時間だ。しかし。
「崇くんはさあ。」
 霧嶺は頬杖をついて言った。
「格闘技は好きか?」
「え……。」
 眼鏡がずれたような気がして、崇は弦を右手で持ち上げた。
 去年辺りから、崇の視力は急に悪くなりはじめた。それで、仕方なく眼鏡をつくったのだ。 ほんとうは、あまり掛けたくない。鼻骨の辺りが気持ち悪いし、体育の時間など身体を動かすときには邪魔でならないからだ。だが掛けないと風景がすり硝子で囲まれたようにぼやける。
 眼鏡越しに見た霧嶺の顔は、はっきりと見えた。眼線がくっきりとしていて、顎がしっかりと張っている。意志が強そうな顔だちだ。頑丈そうな体格と兼ねて、男らしいと崇は思った。父にはないものが、彼にはあると。
 太く発達した腕を突き出して、霧嶺は言う。
「俺はね、格闘技とか、強さを追求するものが好きなんだ。野蛮だとか言う人もいるけど、男が強さに持つ興味は理屈じゃないんだよね……。」
 滔々と語りはじめる。実を言うと、崇はこのときまで格闘技には興味はなかった。興味云々よりも、縁がなかったのだ。見る暇もやる暇も、少年にはない。しかし新任の家庭教師の講義は興味深かった。
 人間も動物であるからには闘争本能を持っている。闘争本能があるがために、人間が存在している限り争いはなくならない。理由がなくても人は争うだろう。その争いの只中に立ったとき自分を、或るいは自分の大切な人を、果たして守れるか。男が抱く強さへの憧れはそこを発端としている、と。霧嶺の眼は求道者の厳しさとともに少年の真摯さを湛えていた。
「俺は他人に叩き潰されるのは御免だし、大切な人が危険に晒されているのを何もできないで放っておくのはもっと厭だ。だから、自分と、少なくとももうひとりくらいは何があっても守り通せるくらいに強くなりたいと思う。」
なるほど、霧嶺は如何にも頑丈で、それだけでも他者より強いと言えそうだ。崇は自分の身体を見下ろして、少しばかり情けなくなったものだ。成長期前とは言え、如何にも貧弱だ。
 後に思えば、霧嶺という男がうらやましかった―――いまもそうだ。彼には、守るべき自分と、何としても守りたい人がいるのだ。崇が眺める自分の身体は、一七歳になっても華奢なままで、守りたいとは思えなかった。
「でも、先生はとても強そうだ。少なくとも、僕の父さんより。」
 崇少年は、思うままを言った。霧嶺はちょっと苦笑して、手掌を見せた。
「そりゃまあ……体力は君の父さんよりはあるだろうけどね。でもね、崇くん。体力があるだけじゃ強いってことにはならないんだ。体力と、精神力と、技倆。このみっつが揃って秀れている人を〈強い人〉って言うんだよ。―――それにね。」
 崇には視線を落とした霧嶺が、少し落莫として見えた。予想外の返答を聞いた。
「強くなりたいって思っているうちは強い人じゃないね。でも、そう思わなくなったら強くはなれない。」
 些か逆説的で―――矛盾にも見える。崇は追問できない。一〇歳の少年には、その真理に推論を立てる ことすら叶わなかったからだ。ただ、膝の上で堅く握られた霧嶺の拳に眼をひかれた。難しいよね、と彼はもう一度苦笑してみせた。
 強くなりたい。その気持ちは、性別や年令を問わず誰にもあるのだろう。己れの中にも潜んでいることを、崇はこのとき薄らとだがようやく気が付いた。
 それが故に、技倆にまで話が及んだときに攻防の例として霧嶺と腕を打ち合わせることになっても、崇は躊躇しなかったのだろう。頭部に拳打を受けそうになったときの防技として、自らの前腕で相手の腕を打ち払う、というのをやった。霧嶺が軽く繰り出す拳を、崇が払う。何度もやると、ぶつけ合った前腕が痛む。その日は痛いだけで済んだが、翌日になると腕のところどころが青くなっていた。一日二日痛みは続いたし青痣はみっともなかったが、それを厭だとは思わなかったし、攻防の演練が、確かに崇はおもしろいと思っていたのだ。
 そんな風に、許された時間の半分近くを勉強とはおよそ関係の薄い「課外授業」に費やして、新任の家庭教師は帰っていった。不思議なことでもないのかもしれないが、散々関係のない話をした後でも算数の問題の解法を、崇は忘れてはいなかった。
 初日のみならず、「課外授業」は毎日行なわれた。日替わりで内容を変えた霧嶺だったが、彼はJ・ヴェルヌを好んで話題にした。「八〇日間世界一周」や「海底二万里」のヴェルヌだ。勿論、ほかにも作品はあるが、冒険・空想科学小説が主である。未知のものを探索する場面に鼓動を早めたり危険に挑戦する主人公たちに自らを投影したり、引きつけられるものの多い分野だけに、崇もまたこれを好み、課外授業の課題にせがむこともあった。
 しかし、これが別離を近づけたとも言える。
 崇が教科書や参考書以外の本を読むことができるのは、週一回だけ学校の時間割に組み込まれている〈読書〉の時間だけだった。加西家では教科書や参考書の類いと事典・辞書以外は購入の対象にはならないからだ。だから、霧嶺が「海底二万里」の文庫本を貸してくれたときには睡眠時間を削って貪るように読んだ。削ったのは睡眠時間であって勉強時間ではなかったから、成績には影響はないはずだし、事実そうだった。だが、咎められた。
 三冊めに借りた「十五少年漂流記」を机上の本立てに立てておいた。それが親に見つかったのだ。隠しておいた訳ではないが、めずらしく夕食時に家にいた父がその文庫本を手にしているのを見たとき、崇は身体から血が引いてゆくのをはっきりと感じた。
 その日のうちに対峙はあった。
「霧嶺くん。私は君に、崇に勉強を教えるように頼んだ。なるほど、君は優秀で崇の成績は確かに安定してきたが……こんな余計なことまで教えろと頼んだ憶えはない。」
「加西さん。僕はカリキュラムをなぞるだけが学問の道ではないと思っています。」
 立ち姿で、父と霧嶺は相対していた。崇は傍観者に過ぎなかった。見守る以外に、何をする力も持たない。ふたりの男が褐色がかった照明の下で険しい表情を突き合わせているのを、見ることしかできなかった。
「残念だ。君はもっと分別のある青年だと思っていたが―――これは返しておこう。」
 文庫本が突き出される。駄目だ、と崇は胸の奥で叫んだ。躊躇いがちに、霧嶺はそれを受け取った。
「加西さん、僕は―――僕のしたことは間違ってはいないはずです。」
「もう君は必要ない。帰りたまえ。そして―――二度と来る必要もない。」
 霧嶺の一方の手が拳になっているのを、崇は見た。焦点の定まった鋭い視線が、身を翻した父の背中に注がれている。崇は期待していた。胸を支配する不安の奥に、ほのかな期待があった。革命が起きるときが、近いのかもしれない。
 だが、革命家はそこにはいなかった。眼を伏せ、刹那寂しげな表情を見せて霧嶺はやがて踵を返した。それも勇気のかたちだと気付くには、崇は幼な過ぎた。革命家たるべきは己れであったのだと知るにも―――。
次の日から、また違う家庭教師が崇の許に通うようになった。崇は、勉強以外のものを求めないことにした。勉強のみにこころを用いるようにした。つらい思いは、二度としたくない。自分のせいで家庭教師がクビになるのもあんまり気の毒だ。
 ヴェルヌを読んでいるときほど昂奮したことはなかった。未知と危険への挑戦。ヴェルヌの作品には共通してそれがある。それは強さの探求とともに男の本能と言えるかもしれない。そこへ向かおうとする衝動は崇少年の中にも、確かにあったのだろう。追い求めることは、許されなかった。内なるものを抑えて過ごし―――いつか少年を衝き動かすものは失せてしまった。加西崇を昂らせるものなど、最早や存在しない。あれほど夢中になったヴェルヌの文庫本も、いまでは活字を並べた紙を綴じたものにすぎない。
 淡々と。往く時に委せていた。愉しいとも苦しいとも思わず流れるままに時を過ごした。一〇歳より後の崇には、思い出というものがない。
 常に優秀であることを求められ、そうあるように生きてきた。そうして「優秀な生徒」となり、この先は「優秀な会社員」となるのだろう。果たして、「優秀な人間」にはなれるのだろうか。果たしてそれは、ぜんたい如何なるものなのか。
 ―――息が詰まる。

 

 濃藍の空には満月があった。夜の中を、崇は歩いている。夜の空気に直に触れることなど、 これまでなかった。月の遙か下方には作為的な灯りが集まっている。一ト際明るく見えるのは駅ビルだろうか。当てなく歩くうちに、城見駅周辺まで来てしまったようだ。崇の家から城見駅までは、鉄道駅二タ駅分はある。
 路地を歩いている。爪先を引き摺って歩いている。彼方の正面に横たわる幹線道路に比べて道を一本外れた路地は街灯も明度に乏しく、雰囲気まで暗い。人通りがなければ居心地のいい夜道だが、崇は内心びくびくしていた。前の方から、風体のよくない男が数人、絡まり合うようにして近付いてくる。下卑た笑い声と、にやにや笑い。だらしのない衣服と秩序のない動線。年頃は自分と似たような少年たちだが、相容れない人種だと、崇は思った。
 それより崇を脅かしているのは、因縁をつけられたりはしないだろうか、という不安だ。普通に擦れ違えば何ごとも怖れることはないのだろうが、近頃は理由なく通りすがりの者を襲い死傷させるという事件が頻発しており、その犯人の大部分が一〇代の少年だった。それに駅前では昨日、喧嘩の末に青年が撲殺されるという事件が起きたばかりだ。
 つまり、自信がないのだ。因縁をつけられ、不当に暴行を受けるとも、己が身を自力で守り通せる自信など、欠片もない。自信を持つ拠りどころがないからだ。それに―――己れは守るべき存在なのか、己れ自身を守りたいと思っているのか、やはり自信も拠りどころもない。何をされてどうなってもいいという気持ちもあるが、びくびくしているということは、平穏無事にあることを望んでいるのか。どれがほんとうの自分の気持ちなのか、断言する自信もまた、何処にもない。
 項垂れた。風体よからぬ少年たちと眼が合うことを怖れたからではない。つらかったのだ。何がどうつらいのかは判らない。ただ、天を仰ぐことも胸を張って歩くことも、心苦しいほどつらく感じた。足許が明るくなって大通りに行き当たったと気付くまで、ずっと俯いて歩いた。眼窩の痛みは、家を出たときからずっと続いている。
 眼鏡のレンズに街灯の強い光が映り込む。顔を上げて、崇は欅の並ぶ駅前の大きな通りに行き着いたことを知った。陽が落ちてなお、交通量の減らぬ幹線道路は少年に夜を感じさせなかった。 何ごとも起こらぬまま路地を出たが、心持ちが落ち着いたわけではない。まだ、何かに怯えている。
 足取りは、おぼつかない。酒気を帯びているかのようにふらついている。人の流れが途絶えない駅前を行く中、 崇は何度も擦れ違う人や道沿いに並ぶ店舗の袖看板にぶつかりそうになった。時折、気を付けろ、だの、危ねえぞ、だのと罵声を浴びせられたが、いまの崇はそれを耳殻に拾い上げることだけで精一杯だった。意識は、そんなことよりも遠いところにあるのだ。
 僕の歩く道はこれで正しいのか?
 崇の思う道はたったいま護謨底の運動靴を通して踏みしめている 瀝青材 アスファルト や混凝土に覆い固められた地面のことではない。辿り行く将来である。「君の将来は約束されている」。自分でない者の言いなりになることで知らぬところに築き上げられた将来は、果たして自分のものなのか。すべての自信のなさはそこに集約される。僕が生きている人生は、一体僕の人生なのか―――誰が保証してくれる?
 爪先が引っ掛かった。やっと階段を昇っている自分に気が付いた。歩道橋の段に付いているすべり止めに、靴底の出っ張りが引っ掛かったのだ。危うく階段の上にみっともなく転がりそうになる。何とか踏みとどまったのは崇の中にかろうじて残された少年の反射神経の御陰だろう。
 城見駅前の広い広い歩道橋の上には夜であるからこその明るさと、にぎわいがある。行き交う人々の顔には、笑顔が多かった。ほんとうに愉しくて笑っているのか。崇には、その幾つもの笑顔がどれもこれも一様なものに見える。衆生に晒す笑顔は 仮面 ペルソナ に過ぎない。 仮面 ペルソナ によって 個性 ペルソナ は隠される。個の隠蔽。彼や彼女が歩むのは仮面の人生か個の生涯か。 ―――意志の存在は何処に。
 崇は立ち止まった。橋の中程だった。
 街灯の真下は昼のように明るかったが、その周囲は違いなく夜だった。絶え間なく流れ行く人々の中にあって、ひとりきりで立ち尽くしていることを崇は疑わなかった。手摺りに寄り掛かり、大きく呼吸した。強く意識して、身体の中に酸素が沢山入るように。崇の気道に夜の空気が流れ込む。天鵞絨の空には、確かに月がいる。
 背が、手摺りをすべった。抵抗なく膝を折った。
 尻を石畳につけてすわり込んだ。空が遠くなる。向かい側の手摺りの、格子になった部分を透かして、細切れの夜景が見える。淡い墨を流した拍子木のような空間に小さな灯りが瞬く。綺麗なのかもしれない。自分の思うことにも崇は確信がなかった。格子の隙間に覗く夜景は崇の視界の隅ぎりぎりに薄く重なっている。格子の前を際限なく沢山の人が横切り、更に崇と夜景との間を大きく隔たらせる。夜の外にいる。そんな気がした。
 右から左から、数限りなく人が流れてくる。地べたにすわり込んでいる崇を気にとめる者はなかった。咎める者も蔑む者もない。崇は虚ろに往来を眺めた。蹴とばされたり踏んづけられそうになることも一度ならずあったが、崇自身そのことを気にとめていなかった。ほんとうに革靴に蹴とばされたとしても、思わず痛いと呟いてしまうことさえないに違いない。
 崇は立ち上がらなかった。立ち上がれなかった。自重を支えて重力に逆らうだけの力が、身体の中にない。このまま路上に朽ちてしまっても構わない。そう思った。己れの意志のない人生を歩むことに価値はない。他者の定めた生涯を歩むほかない僕にぜんたい何の意味がある。
 歩道橋の上には、さまざまな顔がある。アルコールに頬を染めた背広姿の酔っ払いが、何処からか聞こえる流行歌に合わせて調子っ外れな鼻唄を歌う。恋人同志と思しき若い男女は往来の真ん中ではげしく口論する。崇と同い年くらいの眼光鋭い少年が、人の林を縫うが如くに急ぎ足で擦り抜けて行く。深緑色の制服姿の女子学生は随分年令の離れた男と並んで橋上から街を見渡している。 所在なく立ち尽くす青年もいる。その誰もが、同じ夜の中にいる。彼等は彼女等は、己れの意志で 「そこ」にいるのだろうか。……。
 あなたたちはいまほんとうに望む倖せの中にいるのか。
 少年の呟きは路上に落ちる。答える者は誰もない。僕は―――僕は。身体の奥にこころの奥に抑え込んでいた言葉が、とうとうこぼれ出た。
「つらい―――つらいよ。」
 加西崇がはじめて口にした本心である。
 酔っ払いの声に隠れて、流行歌の正しい旋律がささやかに聞こえてくる。恋唄だ。I was born to falling love with you ―――君と恋に落ちるために、ボクは生まれた。恋唄の主人公は、恋するために。では僕は何のために。
 僕は生まれた。―――I was born ―――受動態。僕がこの世に出でたのは、僕の意志ではない。 僕は「生まれた」。僕でない者が僕を産んだ。哲学者ライプニッツの言葉を借りるなら、〈神が予め 定めた調和の中で〉。即ち、与えられた人生。たかだか一七年くらいで先が見えてしまう人生。神が予め定めた調和のひとつがこれなのか。僕の意志とは無関係に神は〈予定調和〉を築き上げた……ライプニッツの論が真理なら、僕は神を恨む。定められた人生を歩むことがどんなにつらいか、神は知らないに違いない。……じっと、手を見た。
 両手の中に、空虚がある。一七年生きて、やっと手に入れたのがこれだけだ。失くしてしまったものの方が多いのかもしれない。確かにこの手の中に握り締めていたものはあった。幼い頃、大きくなったらやりたいと思っていたことは沢山あったのだ。両腕一杯に抱えて抱きしめていたものが長い道行きの間にひとつふたつこぼれて ―――たったひとつ残ったのが、空虚である。僕の人生の中に、僕はいない。
 橋の上にすわり込んだのは、崇の意志ではない。歩けなくなった。立っていられなくなった。最早や、これすら定められたるところなのかもしれぬ。そんな気がした。確定された人生を変革することは不可能なのか。ぜんたい、誰の人生だ。天を仰いだ。少年の眸を覗き込むように傾いた月があった。ささやかに流れる流行歌は曲が変わったが、次に流れたのもやはり恋唄だった。
 いま何時だろう。崇の手首には時計がない。時刻を知って何になる訳でもない。これから何をしようとも思わないのだから。ただ、気になった。ほかに気にしなければならぬことはなかった。いまの崇には明日がなく、この夜があるばかりなのだ。そして、崇は知っている。この夜は、いつまでも続く訳ではないと。すべては己れの意志の外に。
 人の流れも時の流れも、己れの流れ行く末さえ、己れの意志の及ばぬところにある。もう厭だ。崇は頭を垂れた。人の波に呑まれ水底に沈んでしまうように頭を垂れた。何も見たくない。逃げ出してしまいたい。街から。人から。夜から。変わらぬものから。流転するものから。―――生きることから。
 もしも、いま僕が生きているのが他者により与えられたものでも予め定められたものであったとしても、僕の人生に違いないのなら。崇は空虚を握り締めた。僕には義務と権利とが、ひとつずつあるはずだ。生きる義務と、それを放棄する権利とが。このまま正路の明らかになった迷路図を辿るのは厭だ。他者の意のままになるくらいなら、 たったひとつ決断することで定められたることに抗えるのなら。……僕は迷わない。
立ち上がった。身体の中にあるかなきかの僅かに残された膂力を底つきそうな気力を以て振り絞り、崇は立ち上がった。歩道橋の手摺りに取り縋り、地上を見下ろす。いまなら跳べる。飛んでみせる。地に叩きつけられようが自動車に轢走されようが、その苦痛は予定調和に引き摺られるよりはましなはずだ。意は決した。人生からの失踪。最後の決断だ。正面を見据えた。……すると、どうだ。
 少年の周囲を、一瞬のうちに夜が取り巻いた。崇から見える範囲一杯に、夜景が広がる。格子に切り取られた細切れの夜景ではない。右も左も正面も背後も頭上も、並べて夜だ。眼鏡を通して見えるところも、レンズから外れたところも。淡く輝いた無窮の闇の中に、数えきれない色数の灯りが蛍火のように散りばめられている。赤い灯も青い灯もある。崇が名前を知らないような色の灯もある。肌に触れるところにも、視力の限界を越える遙か彼方にも、瞬く夜景があった。
 ……綺麗だ。
 間違いなくそう思った。そして確かに僕はこの夜の中にいる、と。
 僕はどうして―――どうしていままで何も見ないまま過ごしてきたのだろう。僕には、新たなものを探し出すことのできる眼と何処までも歩ける脚があるというのに。
たったひとつ決断することで、僕はいままで見ることのできなかったものが見えるようになった。「僕の」決断だ。 最後じゃない。これが僕の、最初の決断だ。
 淡い輝きの闇の天蓋の中に、先刻よりも傾いて円い月がある。白い光を放つ円い月がある。仰ぎ見て、少年は呟いた。
「帰るよ。―――僕の自由は、ぼくのものだ。」
 踵を返して、歩き出した。
 崇は己れがこの夜にあってこの街にあって、自らの両脚で歩み進んでいることをいま確かに 感じている。

〈了〉


970108.Wed.
400字詰原稿用紙換算枚数46枚

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【習作について】

習作にはたびたび「霧嶺次郎」という名の男性が登場しますが、DigitalCreate発行「Silence revolution」に2004年1月〜12月の間、連載していた「天気晴朗なれど波高し」の主人公、霧嶺次郎とは同姓同名であるだけでその他は何ら関係がありません。まったくの別人です。

と じ る