曙 光


 熱い夜が明ける。
  石和 いさわ あや は素肌を覆う薄い洋掛け布団の中に熱い一ト夜をともに過ごした相手の身体があることを手掌で確かめながら、窓を隠すカーテンの隙間に淡く曙光が滲んでいるのをぼんやりと見つけた。
 暖かい雨の季節にもなると、夜は早い時間に逃げるように去ってしまい、薄白い朝が急勝にやってくるのを許すようになる。新たな一日の訪れを知らせる曙光はカーテンの僅かな隙間から忍び込んではくるが、街が動き出すには、そして自分が とこ から起き出して動き出すにはまだ早い時間なのだということは、時計を確かめずとも彩には判っていた。
 もう少し微睡んでいてもいいはず。それに、傍らで眠る大切な男が一週間振りにやっと迎えた休日を、邪魔したくはなかった。記憶に久しく、ようやく得られた熱くはげしい夜の余韻を、まだ味わっていたかった。同じ床の中で深い寝息をたてている男の肩に頬を寄せ、手指でその腕の逞しさを改めて感じ取る。
 この腕が、まだ明けぬ昨夜に荒々しく力強く、この身を抱いたのだった。獣の如くはげしい息遣いと繊細な指の動きに身体の奥に潜む〈ほんとうの自分〉に炎を点され、たまらず自ら両腕を伸ばしてこの男の背中にしがみついた。胸許に顔を埋めてくるその頭を掻き抱いて、自分はほんとうにこの男に愛されているのだと、そして自分は間違いなくこの男を愛しているのだと確かに全身で感じた一ト夜。思い返すだけで再び身体の芯に火が点りそうになる。あの、意識が一瞬にして白く消し飛んでしまう瞬間さえもが鮮明に蘇り、彩は思わずたったいま触れている腕を、手指に力を込めて掴んでしまった。
 途端に、隣りに横たわる身体が身動ぐ。もぞもぞと腕や脚を動かしながら唸るように口の中に何やら言葉をこもらせているさまを見て取り、彩は控えめな声でそっと訊ねた。
「拓海、起きた?」
 口許を動かして声は洩らしたものの確かな言葉が口から出てくることはなく、拓海は洋掛け布団の中から一方の足を放り出した。再び寝息を深くたてはじめる。夜陰を引き裂くほどに響く雷鳴にすら気付かず眠り続ける男だ、そう簡単には目覚めることはない。判ってはいても、拓海が休日の朝をゆっくりと眠っていることに、自分がそれを妨げずに済んだことに、彩は安堵した。
 はじめて出会ってから六年、住処をともにするようになってから二年が経つ。住処をともにしはじめてから、彩はもとの高村という姓氏を拓海と同じ石和に改めた。姓が別々でもそれほど困ることはないし、籍を入れることにこだわらなくていいだろうと拓海は言ったが、彩は法の上でも事実の上でもすべてを分かち合い共有することを望んだのだった。つまりは夫婦になったのである。出会ってから四年が過ぎようという頃のことだった。
 最早や短いとは言い難い時間をふたりでともに過ごし、その間には大小さまざまの諍いも経験し、だからこそ互いの想いの深さは互いによく判ってはいた。だが〈結婚〉という現実を眼の前にして後込みしたのは拓海の方だった。
 彩の夫となった 石和 いさわ 拓海 たくみ という男は気ッ風も度胸も人並みよりはずっといい方だが、些か特殊な事情を抱えていて、それに関わることについては時折臆することがあるのだ。
 拓海は性同一性障害者であった。性根は間違いなく男性だが身体のかたちは女性という厄介な生まれつきのために多岐に渡る苦労を経験していた。その苦労を、己れと関わるがために 他人 ひと にまで押し被せたくはないというのが拓海の言い分だったが、彩はその苦労ごと拓海がほしかったのだ。
 それが彩の求婚の辞だった。告げたときの拓海の表情を目蓋の裏に再び映し出して、彩は洋掛けにくるまったままで少し笑った。吃驚したような、泣き出しそうな、快哉を叫びそうな、あらゆるすべての感情をひとつに混ぜ込んでしまったような顔で、何かを言おうとしながらもまともに言葉を口にすることができないままで暫く口をぱくぱくさせていた。あれほどはげしく動揺した拓海を見たのは、後にも先にもこのときだけだ。
 出会ったばかりの頃には、外見からはまったく判らなかったもののまだ女性のかたちの身体を持っていて、それがために数知れぬトラブルに見舞われていた拓海も、いまでは男性の身体と戸籍を得て、法の上でも書類の上でも事実の上でも普通の男性として、概ね不自由のない生活をしている。
 苦労のない人生などない。そうは雖も負わずともよい苦労まで負っていた拓海は、いまでは少しはそれを肩から下ろすことができているのではないか。拓海の寝顔を間近に眺めながら彩はそう思う。五、六年前と比べて、顔つきから幾らか角が取れたように見える。加齢のためもあるのかもしれないが、舞い込むトラブルの数が格段に減った分、気持ちに余裕ができたためでもあるのだろう。
 見つめる視線の先で急に、拓海が眉根を寄せて息を荒くしはじめた。悪い夢でも見ているのか。彩は半身を起こして苦しげな顔を覗き込んだ。
 苦しげ? いや、このせつなげな表情は―――彩の脳裏には過ぎたばかりの熱くはげしい夜が想起されていた。何度か喘いだ後、揺り起こそうと彩が手を伸ばすよりも先に拓海はびくんと身体を震わせた。
「拓海!」
 肩に手を掛けて、彩は拓海の身体を強めに揺すった。大きく息をついた拓海がゆっくりと眼を開く。
「……あれ?」
「どうしたの? 厭な夢でも見た?」
「いや……お前、おれに何かしたか?」
 横になったままで拓海は一方の手を伸ばして、自分の顔を覗き込んでいる彩の髪を指で梳いた。その手に自らの手を添えて、彩は少し首を傾げてみせた。
「どうして?」
「すごく気持ちよかったからさ。いい夢見てたんだ。」
 にやりと拓海は口許で笑った。その意味深げな表情を見て、どういう〈いい夢〉だったかの察しがついた彩は、軽い腹立ちを込めて言葉を強くする。
「昨夜、あんなに好き放題したくせに、まだそんな夢を見るの……夢で誰とお愉しみだったの?」
 咎めてみせたつもりだったが、少しも効いていないようだ。髪を梳いた手がそのまま背の方へとまわり、ぐいと引き寄せられる。厚い胸の上で詰問への答えを聞いた。
「昨夜と おんな じ相手だよ。……おはよう。」
 もっと怒ってみせた方がいいのかよろこんでみせた方がいいのか、少し迷ってみたが、結局彩はこれだけを答えた。
「……おはよう。」
 愛する者の胸で交わす〈おはよう〉が大切でうれしくて、そのほかはどうでもよくなってしまったのだ。

 

 朝食は軽く済ませた。半月も以前からこの休日はふたりで映画を観に街へ出掛けて、久し振りに外食しようと決めていたのだ。
 休日―――彩と拓海がふたりで営む店舗の定休日でもなければ〈朝食を軽く〉などと悠長なことはしていられない。二年前に拓海が勤め先の店主から暖簾分けして貰って小城駅前の楢の木通り沿いに構えたカレーショップ〈 港湾灯二号店 ハーバーライト・セカンド 〉は小さいながらも繁盛していて、営業日は朝から晩まで動き通しで 毎日が体力勝負だ。食事は三食きちんとしっかり摂らないと身体が保たない。遅い朝食を軽く済ませて、できたゆとりを化粧や洋服択びに充てるなど、いまの彩にとっては結構な贅沢だった。
 それが判っているのか、朝食を終えると拓海は自分から後片付けをはじめ、手伝いは要らないから身支度をはじめるようにと彩を促した。片付けと自分の身支度をさっさと済ませてしまった後もまだ鏡に向かっている彩を急かすこともなく、黙って待っている。若い男にしてはもの判りがいい方だと言えるだろう。
 口唇に紅を差しながら三面鏡越しに拓海がじっと自分を眺めているのを見て、彩は散歩の時間を待ちかねている仔犬を想起した。手を止めずに鏡越しに声を掛ける。
「拓海、その恰好で出掛ける気?」
「駄目か?」
 鏡の中で拓海が自分の身体を見下ろす。 淡灰色 ライトグレイ のTシャツに 橄欖色 オリイヴドラブ の膝丈のカーゴパンツに素足。部屋着そのままのような恰好である。
「駄目とは言わないけど……もう少し御洒落したら?」
 吐息混じりに言った彩に拓海は鏡越しに答える。
「お前が厭じゃなかったら、おれはこれでいいよ。誰に見て貰いに行く訳じゃないんだしさ。」
「そういうところ、どんどん 親分 おやじ さんに似てくるわね。」
 親分 おやじ さんというのは〈 港湾灯 ハーバーライト 〉本店の店主、 角田 かくだ 嘉介 かすけ のことである。豪放磊落を 人間 ひと のかたちにしたとでも言うべき人物であり、暖簾分けをして貰うまで本店で働いていた拓海に店舗経営から手拭きのたたみ方まで教え込んだ師匠でもある。その角田がたびたびこんなことを言っていたのだ。
「飾る必要はない。むしろ飾りなんぞ要らん。中身がしっかりしてりゃ外は飾らんでも整ってくる。清潔感さえありゃ見映えはしてくるもんだ。外をごてごて飾るなんざ、中身のない奴がすることだ。」
 もともと派手な恰好をする方ではなかったが、三年間角田の許で働くうちに拓海はますます自分を飾るということに関心を持たなくなってしまったのだった。基本は〈動きやすいこと〉、それ以上のことを服装に求めなくなった。
 いまは自分の店での仕事が一番愉しい関心ごとらしく、ときどき今日のように映画を観たり食事に出掛けたりするくらいで、拓海は身の周りのものや趣味のものを買い漁ったり無駄に遊びまわったりして小遣いを使い散らすことがない。喫っていた煙草は随分以前にやめたし酒は一滴も飲めない。家計を仕切る立場にある身としては有難いが、今年の誕生日を迎えてもまだ二六歳なのだからもう少し奔放に遊ぶということをしてもよいのではないだろうか、と彩はときどき心配にさえ思う。
「この頃は次郎くんの方がスタイリッシュになってきてるんじゃない?」
 鏡台の周りを片付けながらそう言って、彩は拓海の反応を窺った。引き合いに名を出した 霧嶺次郎 きりがねじろう とは拓海の幼馴染みの青年であり、彩が学生時代にアルバイトをしていたときの同僚であり、〈 港湾灯 ハーバーライト 二号店 セカンド 〉の常連客でもある。夏場でもきちんと背広を整えて着けていて、姿を見せるたびに洒落た 襟飾 ネクタイ を結んでいることを彩は知っている。背広自体は地味なものだが、その中にさりげなく入っている御洒落がよく光っているのだと思う。
 さて、元来負けん気が強い拓海が幼馴染みに対抗意識を芽生えさせるかと彩は期待してみたのだが、返ってきたのは存外あっさりとした言葉だった。
「そりゃそうだろ。彼奴は彼女ができたところなんだし、いまが一番身の周りに気を遣うときなんだろうからな。」
鏡の奥で拓海が床から立ち上がった。ゆっくり歩いて近付いてくる。
「おれはかわいい嫁さんがいるんだし、ほかに女がほしいとは思ってないから、いい恰好なんかしなくていいんだ。」
 な、かわいい嫁さん。そう呼び掛けながら彩の背後に立った拓海は五指を一杯に開いた手で〈かわいい嫁さん〉の頭をくしゃくしゃと撫でた。髪を乱されて、せっかくセットしたのに、とは思ったが、彩は文句を口から出さずにおいた。我慢したのではなく、自分の唯一の人にとって自分が唯一であることが本人の言葉によって明らかにされたよろこびが、丁寧に整えた髪を乱された憤りを凌駕していたからだ。
 何年か前の拓海なら、きっと耳朶を真っ赤に染めながらも仏頂面になるばかりで口にしなかっただろう言葉を、彩は胸の深奥に強く刻んだ。

 

 空は薄曇りで、それでも入梅を過ぎた時期に雨に見舞われずに済んでいるのは幸運と言えた。薄化粧に 簡素 シンプル なかたちのサマージャケットにダンガリーのパンツと、自分もそれほど洒落た恰好はしなかったが、気に入りの口紅と、今年の誕生日に拓海が買ってくれた小さなイヤリングをつけた。天候が冴えなくとも華やかに着飾らなくとも、それだけで彩は気分がよかった。
 並んで歩いている拓海はとても洒落ているとは言えない恰好をしているが、それも構わなかった。これがこの人なのだと納得できたから。舗道を歩くときにもごく自然に車道側にまわってくれるという気遣いを、おそらく自分自身でさえ気付かないうちに見せている夫の腕に、彩は自分の腕をまわした。厭がる素振りもなく拓海は彩の好きにさせている。幾らか以前にはこんな風にくっつくことをやたらに恥ずかしがったというのに。
まわした腕に触れるごつごつと硬い上腕と胸。年を追うごとにごつく逞しくなってきているのが判る。
「何だか、身体つきまで 親分 おやじ さんと似てきたんじゃない?」
「同じ仕事をしてるからな、同じ筋肉が発達してきても不思議はないだろ。いっそ口髭生やして髪型も同じにしてみるか。」
 そう言って笑った拓海に、やはり笑いながら彩は抗議してみせた。
「それは駄目よ。」
「何で?」
「御客さんが本店にいるのかうちの店に来てるのか混乱しちゃうじゃない。」
 それはそれでおもしろいけどな。拓海はまた顔全体で笑った。身体つきや口に出す言葉は変わってきたけれど。彩は思う。この真夏の太陽のような笑い方は出会った頃と変わらない。腹蔵なきこと自明なりと言った笑い方は二〇歳になったばかりの頃と同じだ。いつまでも私を捉えて離さないのはこの屈託のない笑顔なのだと、改めて思った。
 薄曇りの楢の木通りを歩いて、小城駅に入る。海に近い街までの切符を買う。ふたりで一緒に列車に乗るなんてどれだけ振りだったかしらと、彩は記憶を手繰った。
 そう言えば、城見府立医科大学附属病院で拓海が本来の―――男性の身体を得るための形成手術を受けて退院したときは、城見駅から一緒に特急列車に乗ったのだった。手術には健康保険が適用されないために莫大な費用が掛かってしまう。費用を捻出するために年単位で拓海は長い間倹約生活を続けていて、手術を受けるために城見市へ向かうときも普通列車を乗り継いで行ったのだし、費用を最低限にとどめるために入院日数も最短で切り上げたのだった。
 そんな風に限界まで切り詰めていたのに小城市への帰途に料金が割高になる特急列車を利用したのは、大手術を受けて消耗し回復しきっていない拓海の身体に掛かる負担を少しでも軽くしようと彩が説得に尽くした結果だったのだ。行き掛けと同じく普通列車を乗り継いで帰ると言い張る拓海をなだめたり叱りつけたりしながらやっと説き伏せて、揺れが少なく乗車時間も短くて済む特急列車に一緒に乗ったのだ。鉄道をふたりで利用するのは、それ以来のことではないだろうか。
 とても怖い思いをしたことを、彩は憶えている。八時間にも及ぶ大手術。なかなか覚めない麻酔。やっと麻酔が覚めたら、今度は長々と続く術創の痛みと効きづらい上に数を限られた鎮痛剤。たびたび起こった術後の出血。付き添いをしていて、このまま拓海の生命の灯が消えてしまうのではないかと気が気ではなかった。痛みには効かないのに意識は朦朧とさせてしまう鎮痛剤のせいで視線を虚ろにしながら血の気が引いた顔で痛みに喘ぐ拓海の姿を眼の当たりにして、手術を受けることを最後まで反対し続けるべきだったかしらと後悔しそうにもなった。
 けれど。思い直す。あの大変な手術を受けて苦痛を乗り越えて、心身の性の不一致を解消させてしまったからこそ、いま私の隣りでこの人はこうして笑ってくれるのだと。その笑顔で私に安らぎを与えてくれるのだと。
 それを思うと、感謝せずにはいられない。大手術に耐えて無事回復してくれたこと、手術を受ける決意をしたことそれを覆さないでいてくれたこと、生きていてくれたこと、生まれてくれたこと、そして、私と出会ってくれたこと―――石和拓海という存在のすべてに、有難う。声に出すことなく、彩は並んで歩く夫に心を込めた言葉を贈った。
 改札口を通り抜けてプラットホームに出ると、列車は既に扉を開けて待っていた。平日の午前中のこと、乗客はそれほど多くはない。車両に乗り込み空席に着こうとした、そのとき。
「おっと!」
 不意に傍らから声が聞こえて、彩はそちらに振り向いた。一、二歩後ろの扉際で拓海が足を止めて身体を屈めていた。プラットホームと車両との隙間に片方の足を突っ込んでしまい、転びそうになった小さな男の子の身体を咄嗟に支えたところだった。
 三歳くらいだろうか。小さな身体は下手をするとプラットホームと車両との狭間に吸い込まれてしまいそうだ。拓海の両腕に支えられながらも男の子は短い両腕を振りまわして何とか自分でも 平衡 バランス を取り戻そうとしている。その身体を両手で軽く持ち上げてやり、拓海はプラットホームの上に男の子を両足をつけて立たせた。
 男の子の直ぐ傍にいた、母親なのだろう若い女性がその子の小さな手を取りながら拓海に丁寧に頭を下げている。
「有難うございます。この子ったらよくやるんです、ちっとも足許に気を付けなくって……ほら、助けて頂いたんだから御礼言いなさい。」
 若い母親に促されて、安全な足場を確保できた男の子は、小さな身体を一杯に使った大きな声で言った。
「おじちゃん、たすけてくれてありがとう!」
 三分の一くらい困ったような顔で笑って、拓海は男の子の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「元気いいな、坊や。どういたしましてだ。世の中には落とし穴が沢山あるから気を付けろよ。」
 手を振って、列車から改札口へ向かう親子を見送る。間もなく発車を告げる車掌の笛が高らかにプラットホームに響き、列車の扉は閉まった。車窓の外の風景が動き出す。彩と並んで長い座席の一隅にすわった拓海は、少しばつが悪そうに利き手で自分の短い髪を掻き乱した。
「おじちゃんって言われっちまったよ。おれ、もうそんな 年令 とし か?」
 それとも老けて見えんのかな。指先で顎を掻く拓海を見て、彩は笑った。男の子の言葉もそれを気にしてみせる拓海も、どちらも微笑ましく思えた。
「あの男の子から見たら拓海は二〇歳以上も年上でしょ。拓海から見ても二〇歳も年上の人はおじさんじゃない?」
 走り出した列車に揺られながらそう言うと、そう言えばそうかな、と拓海は納得した様子だった。
 規則的な車体の揺れを座席を通して数秒の間、身体に感じ取るようにして黙った後、拓海は再び口を開いた。
「おれたちにもあの男の子くらいの子供がいても、おかしくないんだよな。」
 我知らず、彩は小さく息を呑んだ。これまでできるだけ触れないようにしてきたことを拓海が自ら口にしたことに、僅かならぬ驚きと焦りを覚え、罪悪感さえもが胸の奥に生まれ出る。
 女性の身体を持って生まれてきた拓海は、形成手術によって本来あるべきかたちである男性の身体を得た。それがために生殖能力を欠いている。子を産むことも産ませることもできない。そのことは、結婚を言い出したときに充分に話し合ったはずだ。互いに納得し合ったはずだ。それなのに。
「産ませてやれなくて済まないと思ってる。……お前、子供好きなのにな。」
 素足にサンダル履きの足許を見つめたままで拓海は言う。薄曇りだった車窓の外の空が重い鈍色に変わりはじめていて、それが拓海の胸中を映し出しているかのように、彩には思えた。胸に生まれた小さな罪悪感が少し早口にさせる。
「それは拓海のせいじゃないでしょ。前にもこの話は―――。」
「子供、ほしいだろ?」
 遮るように、しかし呟くように言った拓海の横顔は、俯いている。表情には苦さも険しさもなかったが、決して晴れたものでもない。
「……おれが自動車の免許を取るときに世話になった教習所の教官が肝ッ玉母さんでさ、その人がよく言ってた。子供を産むってことは女の醍醐味なんだって、子供を産んで育てることが女の一番のよろこびで倖せなんだって。それなのに、おれは、お前に……。」
「待って、拓海。」
 列車は走り続けて幾つかの停車駅を過ぎたが、乗客の数は大きくは変わっていない。車内には空席が目立つ。彩たちの目的の駅はもう少し先にある。膝の上で拳になっている拓海の手に、彩は自らの手を重ねた。
「子供がほしくないって言ったら、確かにそれはうそになってしまうわ。だけどね、もしも私たちが子供を授かれるとしても、いまは自分たちが生活することで精一杯で、産むことも育てることもできないじゃない。御店だってやっと軌道に乗ってきたところなんだし。……それにね。」
 拓海の硬い拳に手を重ねたままで、俯く横顔を見つめる。自分を捉える視線に気付いた拓海が顔を上げてこちらに向けた。真っ直ぐに視線を交える。大きな声ではないが列車が揺れる音に決して掻き消されることがない声で、彩は思うままをはっきりと告げた。うそも欺瞞もなく。
「あなたとこうして一緒にいられることが、いまの私の一番の倖せ。これ以上倖せになったら罰が当たっちゃう。」
 迷いなく真っ直ぐに見つめる先で、拓海の勝気な上がり眉が少し下がる。もの思うように一度眼を伏せて、それから拓海は隣りにすわる彩だけにはっきりと伝わるように言った。
「有難う。……有難うな。」
 重ねた彩の手のひらの下で、硬く結ばれていた拓海の拳が解ける。その手を彩はそっと握った。
 列車が速度を落としはじめる。次の停車駅が近いのだろう。車内放送が次の停車駅の名を告げている。座席の向かい側の窓外に見える鈍色の空では、雲の狭間から白い陽光が地面へと伸びている。まるで未知の世界へと通じる扉に繋がる階段のように。
 たとえふたりの間に新しい生命を授かることができなくても。彩は誰より何より一番大切な者の手の温もりを重ねた手掌に感じながら、ゆっくりと過ぎ行く窓外の風景を眺め見た。
 今日一日を精一杯に生きて愉しんで、今夜はきっと昨夜のように熱くはげしく愛し愛されよう。そしてともに新たな曙光を迎える。
 新しい日のはじまりに差す曙光は新しい日を迎えるそれぞれの生命をも新たにしてくれる。私たちは毎日新しく生まれている。新たな日を一杯に使って新たな互いを育み合おう。それこそがさいわいのすべてに違いないのだから。
 彩はもう一度その確かさを感じ取るように、今度はしっかりと拓海の手を握った。

 

〈了〉

 
0506151937.Wed.
400字詰原稿用紙換算枚数25枚
本作は「Silence revolution」に連載された「天気晴朗なれど波高し」を予めお読み頂いた方にはより愉しんで頂けます。

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