夜更けのコーヒー


 夜が音もなく更けていく。
 いつもは当然のように聞こえてくる隣室の住人の呟きもテレビの声も、アパートの薄い壁をさえ越えてこなくなった。静寂に冷えはじめた空気の中で、東次はようやく原稿用紙に「了」と書き入れた。
「間に合った……。」
 陽が昇れば締切が来る。狭い座卓の上で地味な地元誌の小さな囲み記事を書くアルバイト学生にだって締切は容赦なく訪れるのだ。座卓の上に資料や辞書が無計画に積み上がっているその隙間から、東次はコーヒーの缶を拾い上げた。
 予想外の軽さ。
 手が止まる。空っぽだ。両肩にのし掛かる疲労感が、山ひとつを背負ったようにずしりと重くなる。くたくただった。
 小さな小さな記事とは言え、学業の傍らとは言え、「書く」ということを仕事にするようになってから、たとえ肉体労働とは無縁でも、ひたすらひどくくたびれてしまうこともあるのだと、東次は知った。身体の中に重苦しいものが沢山詰まっている気がして、大きく息を吐いた。
「……きついなあ。」
 意識の外からこぼれ落ちる呟き。手からコトリと卓上に落ちる缶の音。それに混じって扉を叩く音が聞こえた。続いて乱暴に扉が開く音と、どたどたと騒々しい足音。
 そう言えば玄関の鍵を掛けるのを忘れていた。不用心なことだと自分に呆れながらも顔を上げると、部屋の戸口に見忘れてしまえない顔一杯の人懐っこい笑顔が現れた。
「よう、まだくたばってなかったか。」
 東次は肩をすくめた。
「やっぱりお前か、新哉。」
 はじめて制服というものを着けて登校した日に出会ったのは運命だったか、それから一〇年が経とうというのに何故だか縁が切れない、友人と呼ぶには近すぎる男。こういうのを腐れ縁とでも言うのだろうか。
 現れたそいつは両方の手にひとつずつ缶を持っていて、その一方を無言でずいと差し出してくる。東次は受け取った。新哉から手渡された缶コーヒーは、冷えかけた手掌にじわりと温かかった。
 受け取った缶のプルトップを引く。パキンと小さく音が立って、手許から湯気と香ばしい匂いが細く立ちのぼる。口に含めば豊かな香りとやわらかな口当たりに、緩やかな温かさ。一ト口飲み下して東次は長い息をついた。身体の中に詰まった何かが流されていく気がした。
 少しずつ、少しずつ、ゆっくりと温かさと香ばしさとを身体の中に受け容れていく。その東次の姿を、新哉は傍らのベッドに無遠慮に腰掛けて見ていた。何を言うでもなく見ていた。
 寂しくもない気不味くもない、互いに無言の時間がただ行き過ぎる。
 やや時間を掛けて缶を空にしてしまうと、東次は手にした缶を改めて見つめた。ぽつりと言う。
「お前が買ってくるコーヒーはいつも〈乳飲料〉だ。〈コーヒー〉だった例しがない。」
「そういう文句はブラックで飲めるようになってから言え。」
 笑っていた。
「安心した。帰るわ。」
 笑いながらベッドから立ち上がって、新哉は手許に残っているもう一本の缶コーヒーを座卓の上に置いた。資料や辞書の山も東次が書き上げた原稿も巧い具合いに避けて、僅かな隙間に小さな缶を落ち着かせると、それだけでさっさと出て行ってしまう。足音はどたどたと騒々しかったが、続いた玄関の扉の音は、今度は静かだった。
 次第に深くなっていく夜の中で、東次は残された缶コーヒーを手に取った。
「……いつも有難うな。」
 いつだってそうだ。新哉は決まって、東次が夜の縁に行き当たってしまったときにひょっこり顔を出す。必ず、東次がいつも好んで買う缶コーヒーを手に持って。

 

〈了〉

0606062227.Tue.
400字詰原稿用紙換算枚数5枚

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と じ る