怪しい誘惑の第5日 [2005年9月13日(火)]

持参した眠剤はほんとうに弱いもので、ほんの少し寝入り端を助けてくれるに過ぎない。もともと不眠症を抱えているぼくは相変わらず浅い眠りしか得られず、その上、疲れがたまってきているようで寝覚めもよくない。身体が怠いから「伸び」をしたいが、術創が開きそうだし痛みもあるので、できない。
少しでもすっきりさせようと風呂に入ってから食事に行く。ホテルの朝食もそろそろ飽きてきている。退院翌日はこの上なく有難く思ったものをつまらないものに思うようになってきている自分を、何て勝手なのだろうと思う。

食事が終わった後は部屋に戻ってベッドの上でごろごろしていた。昨夜のことに、明日は1日何処へも出掛けずに休んでおこうと思っていたからそのようにしようと横になっていたのだが、出掛けないと昼食も夕食も手に入らない。
目眩も気になってはいるが、危なくなったら直ぐに帰ってくるつもりで、外出することにした。

いつもの通りにシーロム通りへ。そう言えばぼくはずっとフットマッサージをして貰おうと思っていたのだった。タイ式のマッサージの店は、シーロム通りにも沢山ある。
いままでは、マッサージをして貰うと経絡(いわゆるツボ)にも刺激が行って痛みも感じるだろうし、そうすると身体の思わぬ部分にも力が入ってしまって術創に影響するんじゃないかと怖くて、「やっぱりやめておこう」と思っていた。しかし、それほど術創の具合いもひどくはなくなってきたし、1回くらいは経験しておきたいし、マッサージして貰えば身体の怠さも取れるかもしれないと、入りやすそうなマッサージ店を探した。

いつも歩く南側の歩道にはマッサージ店はないことが判っているので、今日は北側に渡って探してみる。確かあったはずだ。見た憶えがある。
あるにはある。しかし、どの店もがらがら。誰ひとり客がいない。マッサージ店だけでなく、ほかのファストフード店などの食事をする店もそうなのだけれど、午より早い時間は人影がない。「少ない」のではなく、「ない」。入りづらいことこの上ない。頚部の怠さが重さに変わってきて、そろそろ目眩がはじまる。まだ滞在期間は残っているからマッサージは今日でなくてもいいだろう。そう思って道を引き返しはじめた。そこに小柄な男がやってきて、ぼくに話し掛けてきた。タイの人なのだろうが、言葉は英語だ。

「よう大将、いい子がいるよ」
口髭を生やした浅黒い肌の男が、背景に赤色や紫色の派手な色が入った、女性が大勢映った写真をぼくに見せながら、耳許に囁きかけるように言う。
「ほら、よりどりみどりだ。どの子もかわいくて、身体と身体で通じ合えるよ。顔を見るだけでもいいから寄っていきなよ」
こういう客引きがいるのだとぼくは予め聞いていたし目眩がはじまっていてしんどかったので、素っ気なく断った。
「要らないよ」
だけど客引きの男は直ぐには引き下がらない。
「女の子と遊びたいだろう? 好きな子と話せるよ。話すだけじゃない。俺と一緒に来てくれたら……」
「要らないってば」
「じゃあ、DVDはどうだ。俺の店、直ぐそこにあるから見て行って。見るだけでいいから」
「要らない要らない」
「女の子とも遊んでいきなよ。ほら、みんなかわいいだろう?」
「要らないんだって」
「女の子は要らない? 男の子がいいか。男の子もいるよ」
「……要らない」

髭の男は100mほどの距離をぼくと一緒に歩いて、ずっとぼくの耳許で喋った。観光客だけを狙ってこういう商売をしているんだろう。そうでもなければ英語で外国人に話し掛けてくるなんてことはないだろう。特に日本人は格好の標的なんだろう。こういうのを目的にこの国を訪れる輩もいるようだから。
それにしても、ゲイの人も視野にきちんと入っているところがタイの人は偉いと思った。同性愛者、両性愛者、性転換者、その何れもがこの国では「そうでない人たち」の中に馴染んで生活していて、めずらしがられることすらないのだと言う。ぼく等みたいなのには住みやすいのかもしれない。

目眩がひどくなってきている。何か喰うものを買って早くホテルに帰ろう。サラデーン駅の構内のスタンドで売っている果物ジュースと、同じ構内にある「spicchio」というイタリアンサンドイッチの店でクラブサンドとカルツォーネを買って帰途につく。
サラデーン駅の階段を昇るときに、頭がふわっとして身体を背後に引っぱられるような感覚に襲われ、危うく倒れそうになる。すんでのところで手摺りに捕まって階段を転げ落ちる難を逃がれる、ということが1回や2回では済まなかった。こんなことはしょっちゅうだから特に慌てはしなかったのだけど。
帰り道の路上で焼鶏を5本買った。肉を喰わないと身体が回復しないのではないかと不安だから。5本で25バーツ。日本の焼鶏と同じ味がした。観光客向けだろうか。

ホテルに戻って直ぐに食事を摂る。先刻の焼鶏とカルツォーネひとつ。それで腹が一杯になる。スタンドで買ったジュースは、ウィークエンドマーケットで買ったみかんジュースと同じ味を期待していたのだけれど、日本で飲める普通のオレンジジュースの味だった。ジュースは屋台で買うべきか。
外は今日も晴れでそれなりに暑く、その中を2時間ほど歩きまわって汗をかいたし、風呂に入ろうと思うが、それだけの元気が身体の中にない。タオルを絞って清拭にとどめておく。着ていたシャツと下着の洗濯はした。
腹を切る人は綿100%の、やわらかい生地でできたパンツを持って行った方がよい。硬いごわごわした手触りの生地でできたものも中にはあるが、そういうパンツを履くと抜糸してガーゼを外した後の術創が生地に摩擦されて、ちょっと怖い思いをする。

身体を拭いて着るものを換えて、ベッドに横になる。暫くぼんやりしていると目眩は治まってきた。目眩が治まると今度は、この間からぼくを困らせている青少年の悶々が出てくる。身体はくたびれているくせに、とは自分でも思う。それは次第にひどくなってきて、じっとしていられないほどになる。気を違えそうだ。シーロム通りで会った髭の男の誘いに乗ってもよかったか、などと考えるようになる。
どうしてくれよう、とは思うが、どうしようもない。怖る怖る、他人さまにはあまり大っぴらには言えない行為に及ぶ。身体をまったく自由に動かせる訳ではないし、うっかり腹筋が力むかもしれず、それが怖いからほんとうはしたくない。でも、ほんとうにどうしようもない。
……時間は掛かったが、何とか「終わり」を迎えた。確かに幾らかすっきりはしたし、「こんなことができるまでに回復したか」という妙な自信も持った。それにしても、これほど身体の欲求が強くなったことなんて、これまでになかった。自分で驚く。同じ手術を受けたほかの人たちも回復の過程でこんなことを経験しているのだろうか。

すっきりした御陰か、この後の食事は喉の通りが随分よかった。「spicchio」のクラブサンドは野菜が沢山入っていて旨かった。挟まっていたチーズが特に旨いと感じる。
ぼくは身体の具合いが芳しくなくなると決まって肉とチーズを喰いたくなるのだけど、それはやはり身体をつくるために必要なものだからだろうか。
食後はリビングのソファでぼんやりしておく。日没頃に外線電話が掛かってきて、今日退院のFTMくんと滞在中のMTFさん、そしてガイドのM氏の3人でパッポン通りへ出掛けるのだが一緒にどうかと誘われる。昼に出掛けたときは目眩がひどかったしこれから出掛けて同じことが起きないとも限らない。それにパッポン通りと言えば酒を飲ませる店が沢山ある繁華街で、ぼくはまったく酒が飲めない。一緒に行っては却って迷惑だろうと丁寧にお断りさせて頂く。

その後もぼんやりしていたら、短い時間だが眠ってしまっていた。気持ちよかった。続きはベッドで眠ることにする。

 

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